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縁を紡ぐ久米川町46番地の庭

西武線東村山駅から歩いて6分ほど。府中街道沿いに木々が茂る一角があります。今年6月、天王森不動尊の隣にある古い一軒家の入口に“百才(ももとせ)”と書かれた小さな看板が立ちました。母屋は築66年、離れは築33年。2つ合わせて間もなく100才分となる時を積み重ねてきたこの場所で、何が始まろうとしているのでしょう。家主である川島昭二さん、工務店大黒屋の袖野伸宏さん、編集デザイン会社ハチコク社の仲幸蔵さんと福田忍さんに聞きました。

生まれ育った家を壊したくない

築66年の母屋で生まれ育った家主の川島さん。平成2年、同じ町内に家を構え引っ越しをしてからは、高齢のご両親が母屋に暮らし続けていました。そんな実家が空き家となったのは、平成26年のことでした。

川島さん 「平成8年におやじが亡くなった後、平成26年にはおふくろが他界して、とうとう空き家になってしまいました。月に何回か庭の草取りに通う日々が、随分と長く続きました。2年くらい経った頃に、『収益物件に建て替えませんか』と建設会社が5、6社やって来るようになって。中には、県をまたいで所沢や川越から来たり、図面や収支計画を作ってきたところも正直な話あったんです」

改装途中の母屋。土間部分にある井戸は、今もアトリエ&ギャラリー内に残されている。

不動産の登記簿謄本をインターネットで閲覧できる今。誰がいつ相続したか業者にリサーチされた結果、ダイレクトメールもひっきりなく届いていたと言います。けれど、ちょうど当時は、収益物件の不動産トラブルがニュースを賑わせていた時期。リスクを負って収益物件にしたところで、入居が続かなければ空き家になってしまうことには変わりなく、火災などの心配も相変わらずつきまといます。何か対処しなくてはいけないと頭では考えながらも、業者からの提案には前のめりにならなかった川島さん。胸の中では、収益物件への不安とともに、全く別の想いも抱いていました。

川島さん 「アパートを建てればそれで終わりますけど、家がなくなるのは寂しいような気がしてね。昭和29年にこの家で生まれてずっと暮らしていたので、今もすぐそばに住んでいるのに、それでもやっぱり、この家がふるさとだと感じるんです。子どもの頃、八国山に遊びに行ったなと思い出したり…。この家を残したいという想いが、踏みとどまった一番の理由だったと思います。府中街道に面しているし、隣はお不動さんで、駅からも歩ける範囲内。離れは築年数も30年ほどなので、何とか使える方法があるならと」

とはいえ、敷地は30年以上も前に作った高いブロック塀で囲っていたため、メンテナンスせず放っておいて地震でも起これば、通学で歩く子どもたちに崩れる心配がありました。家屋の傷みも早く、対処すべき問題は待った無しの状況。頭を悩ませていた川島さんは、空き家になってから3年後の平成29年7月、同じ町会で工務店を営んでいた大黒屋の袖野さんへ相談します。

家主の川島さん。実は、川島さんが思い出の品々を整理するため、改装の合間で何度か中断したことがあったそう。今ではお風呂場が思い出ルームに変貌し、娘さんが背負っていたランドセルなどを大切に仕舞っている。

何をするかは「すべておまかせ」

家主である川島さんから相談を受けた、地元東村山の工務店大黒屋の袖野さん。最初は、「アパートにしたらどれくらいお金かかるかね」という電話がかかってきたのだと言います。他のしごとと同じようにアパートの図面を書きながら、袖野さんは葛藤します。

袖野さん 「ビジネスとして済ませばそれまでだけど、最近のアパート経営は上手くいかないことも多いという話を知っているのに、『建てた方がいいですよ』とは言えない。そこで、築年数が浅い離れをリノベーションして貸し出せば借り手がつくだろうと、図面を作ってお金の計算を進めました。でもね…。この家の前を毎日通りかかる度に母屋が目に入って、見れば見るほど『もったいねえよなぁ…』とずっと思っていたんです」

大黒屋の袖野さん。相談をした当時お2人には直接の面識がなかったものの、川島さんは「何かあったら飛んできてくれる近くの人に相談するのが一番」だと思ったそう。

周りには現代的な家々が立ち並ぶ中で、1軒だけ時が止まったかのように残された母屋。その姿に魅入られた袖野さんは、しごとを終えて家に帰ると、「あそこうちで借りたら何する?」と奥様と毎晩のように話し込んでいました。「子ども達が遊べる場所とかいいよね」と妄想が膨らみ、相談を受け始めてから半年ほど経ったある日、思い切って川島さんに相談します。

袖野さん 「『何をやるかも決まってないけど、俺がもし借してって言ったら貸してくれます?』と聞いてみたら、『いいよ』と(笑)運営とかはどうしたらいいかわからなかったので、まずは、借りたいと思ってくれそうな人に声をかけていきました」

少しずつ関わる人が増え始め、プロジェクトとして動き出す兆しを見せていたとき、家主である川島さんは、自分の当初のイメージにはなかった展開をどう感じていたのでしょうか。

川島さん 「頼もしかったです。楽しみだねって言ってくれる近所の人もいて。『大黒屋さんに任せてあるから、どういうのができるかわからなくてワクワクしてるんですよ』と答えていました(笑)何十年も塀に隠れていた場所が道から見えるようになって、何が始まるんだろうと注目されているのを感じました。古民家ブームのような形で何かやってみる価値はあると、大黒屋さんが色々と案を出してくださって。建物だけ残してもらえたら私はいいですよと。すべておまかせしようと思いました」

路地を挟んですぐ隣にある天王森不動尊。明治9年に創建されたとされ、自治体のお祭りなど地域の人々が集まる場としての長い歴史がある。

自分ごとが地域の場づくりに繋がる

袖野さんの声かけから借りたい人探しが始まり、約1年後、母屋に設けたパブリックラウンジを中心に、オフィス・シェアキッチン・アトリエ・ドリンクスタンドなどが揃う複合施設が誕生しました。“ものづくり・まちづくりに関わるたくさんの才(能)”が集まる場所となることを目指す百才ですが、集まったメンバーは、初めから地域の場づくりを目的としていたわけではありません。

袖野さん 「地域のためにとかコミュニティとか、後付けで言うとかっこよくなっちゃうんですが(笑)元々は、工務店として地元で30数年しごとをさせてもらっていて、定年した後に保育園や子ども食堂ができないかなとか、会社が手狭になってきたので離れの2階をオフィスにできないかなとか、本当に自分ごとだけでした。川島さんと話して、色々な方との出会いの中で考えが変わってきたというのが事実なんです」

仲さん 「僕たちは、5年間続けてきた東村山版“るるぶ”に代わって、“むらのわ”という新しいメディアを始めたタイミングで、自分たちの事務所を探していました。僕は東村山出身で43年このまちにいますが、こんな家があると気づいていなくて、この母屋に一目惚れしたんです」

ハチコク社の仲さん(右)、福田さん(左)。2017年から久米川東小学校で“東村山のすてき発見”という特別講義を務めているハチコク社。素直でピュアな子どもたちの視点に感動し、まちの風景や文化をもっと伝えていきたいと思うようになったそう。

福田さん 「仕事場を借りるなら、自分たちだけの場所じゃなく、モノを作る人や地域の人が集まれる場所の方がいいなと。さらに広いお庭もあって、これ以上の環境とタイミングはないなと、悩む間もなく決意しました」

それぞれの目的を形にするための最高の環境に出会った一方で、一つの場として成り立たせていくための企画や運営に関しては、壁にぶつかりながら進む日々が続いていると言います。

袖野さん 「最初は何月にこれをして…と計画してたけど、全然その通りにいかなくて(笑)ちょっとずつですね。ある意味、完成はないのかもしれません」

福田さん 「中央線沿いには、暮らしている人がお金を出し合って自主的に拠点を作っているところも多いですが、東村山にはまだ全然ないんです。拠点ありきの運営がどれだけ大変か他の地域で目にしてきましたが、いざ自分が場を持つとなると、どんな進め方がいいのか頭の中で常に問い続けています」

パブリックラウンジに生まれ変わった母屋の居間。残されていた大量のものを整理し、天井を外して改装を進めた。

母屋の土間を再生したアトリエ&ギャラリーを借りたのは、和紙造形作家のにしむらあきこさん。にしむらさんがハチコク社のお2人にアトリエのシェアを持ちかけたことがきっかけで、百才のプロジェクトが動き出したそう。

「おばあちゃん家のお庭以上、公園未満」

袖野さん 「遠くから足を運んでくださるイベントもいいけど、近所の方が来てくれるのが一番うれしい。百才がある4丁目だけでも、もっと言えば46番地からのスタートでいいんです。3、4人が来てお弁当を食べていたり、昭和の遊びをおじいちゃんが子どもに教えて、今の遊びを大人が教わる。そういう風景を作れないかなぁと」

ハチコク社の仲さんも「おばあちゃん家のお庭以上、公園未満にしたい」と言うように、そのイメージの実現を予感させる光景は、これまでに開催したお披露目の会ですでに見え始めていました。庭の木でシジュウカラが鳴くのを毎年密かに楽しみにしていたという近所の方、普段着姿で自転車に乗ってやって来る市役所の職員、多くの子ども連れが百才に集まっていました。

7月27日のオープニングに開催された“ご縁がさねの会”。市内外から百人近い人々が集まった。

福田さん 「百才のプロジェクトが地域の人たちに迎え入れてもらえたのは、家主の川島さんがとにかく寛容で寛大だったからです。何でもやっていいよっておっしゃってくださるのが一番心強い。オープニングの日も、来られた方に1人ひとりに挨拶されたり、靴を並べ直したりされているのを見ると、川島さんも一緒に運営していると感じて本当にうれしくなります」

川島さん 「時を遡って、子どもの頃の自分の家に帰って来たような気がしてね。色んな人に来ていただくのはうれしいですよ。姉と共有でこの家を持っていて、そのままじゃ物騒だし有効活用した方がいいよねと言われていました。だから、地元の人が先頭に立ってやってくれるならそれにこしたことはない、よかったじゃないと姉も言ってくれています」

ご実家が空き家となってから、百才として生まれ変わるまで約5年。たくさんの人が集まるかつての我が家の庭を見つめながら、5年前の自分に何か伝えるとしたら、川島さんはどんな言葉を掛けるのでしょう。

川島さん 「空き家を有効利用したいと思ったら、『ここ空いてるんだよ』という情報発信をしないと駄目だなと思います。色んなところに出せば、今の時代なら、使えるかもと思っている人がきっといると思うんですよね。あとは、『住まないんだから金かけてもしょうがない。いずれ解体すればいいや。住んでないから関係ないし』と思っていると近所に迷惑がかかる。家屋は傷みが早いので、時々見に来て小綺麗にしておくことはやっぱり必要じゃないかと思います」

日中は、基本的にいつも誰かいる場所にしていくという百才。10月からはコーヒースタンドとビールスタンドも本格スタートします。さらに、母屋と離れをつなぐ庭をパブリックな広場に改装するためのクラウドファンディングにも挑戦予定。これからまた1才ずつ新たな時を重ねていく百才で、たくさんの縁が紡がれていくでしょう。(國廣)

「梁で支えている天井や畳を見ながら、『うちも昔はこうだったよね』とか話してもらえたら」と川島さん。改装中、天井裏から川島さんのお兄さんの通信簿が出てきたというエピソードも。

府中街道から見た百才。これから取り掛かる庭づくりなど、少しずつ育っていく様子を見るのも楽しみ。

プロフィール

百才(ももとせ)

“縁ひらく庭”をコンセプトに、空き家を改装して生まれた文化複合スペース。プロジェクトメンバーは、百才と同じ久米川町にある工務店・大黒屋(離れのシェアキッチンを運営)、編集デザイン会社・ハチコク社(オフィスを構えながら母屋全体を運営)、和紙造形作家のにしむらあきこさん(母屋のアトリエ&ギャラリーを運営)、加えて、コーディネートを担当したAtelier はな緒の平野智子さん。まちの人の拠りどころとなることを目指し、2019年7月27日オープン。
http://momotose100.jp