福島にある実家の洋菓子店を、祖父母や母と営んでいた樋口聖也さん・佳八子さんご夫妻。2023年より福島と東京を行き来する2拠点生活を開始しました。2024年4月には、小金井市の高架下にあるシェアキッチンで、「喫茶ほしのこ」をオープンさせた二人。なぜ2拠点生活を送ることになったのか、これまでの軌跡と描く未来について、お話を伺ってきました。
聖也さんのご実家は、福島県会津地方にあるケーキ屋「御菓子司三浦屋」。元々は曾祖父が和菓子屋として開いたお店だったのですが、祖父の代で洋菓子を作り始めたのだそうです。聖也さんは、幼い頃から、祖父母がお菓子を作る姿を近くで見てきました。
樋口聖也さん(以下:聖也) 「小さい頃からお店に出入りしていて。ケーキを買ってくれる人の笑顔を見て、いい仕事だなと思っていました。ケーキ屋は母方の実家で、製造は祖父母、母が販売担当という体制でした。幼稚園の頃、ケーキ屋になる、と言ったら喜ばれちゃって。後に引けなくなっちゃいました(笑)」
高校を卒業後、専門学校エコール辻東京を経て八王子にあるケーキ屋さんペール・ノエルに就職します。そこで約2年を過ごした後、聖也さんはヒルトンホテルで働き始めます。
聖也 「元々パティシエになることが夢というよりは、祖父母と一緒に働きたいという思いが強かったんです。でも実家で製造を担当している祖父も高齢になってきて、自分が東京で学ぶ時間にそれほど余裕はないなと感じていました。個人店だと6年くらいかけて全てのポジションを回り、基本的にはシェフが考えたレシピを忠実に再現していく作業になります。状況にもよりますが、ホテルのビュッフェなどでは、テーマに合わせながら自分で自由に作れるケースが多いんです。充実した設備の中、コース料理のデザートやウェディングなど、幅広く学べたのが良かったですね」
東京で充実した毎日を送っていたある日、実家から祖父が癌で余命2年であるとの連絡が入ります。これをきっかけに、聖也さんは福島へ帰ることを決意しました。もう少し東京で経験を積もうと思っていた中の、志し半ばでの帰郷でした。
その後、幸い癌は治りましたが、福島の実家で聖也さんは製造を担当することになりました。そして福島でも新たなチャレンジを始めます。いつも同じような商品が並んでいたお店のショーケースに、月に2~3種類ほど新商品を増やしていったのです。
聖也 「今まで愛されてきたものを残しつつも、地域に新しいものをもたらしたいなと思ったんです」
しかし、最初は大変だったと話します。
聖也 「新しいものを創り出すというのは初めての経験で。お客様にケーキを買ってもらい喜んでもらうということを考えながら、一から生み出していくのは大変でした。また、設備や材料に限りがある中で、できることを考えるのに苦労しましたね」
そんな中、出会ったのが当時大学生だった奥様の佳八子さんです。聖也さんと同じく福島県の出身で、筑波大学で木工製品や漆といった天然素材を専門に、美術を学びました。実習で手工芸が多く残る会津地方に通う中で、強く惹かれ、そこで暮らすことを夢見るように。そして、偶然にも近くに住む聖也さんとの出会いを果たします。大学卒業後は、資料館の学芸員として念願の会津地方で働くようになりました。
飲食とは異なる道を辿ってきた佳八子さんでしたが、聖也さんと結婚後に洋菓子店で働くことに大きな抵抗はなかったと話します。
樋口佳八子さん(以下:佳八子) 「元々、会津地方で何か商いをやりたいという思いがあったんです。食にも興味がありました。それに、大学で紙物のグラフィックを学んでいたので、パティシエとして実力のある夫がこれからお店をブランドとして育てていく上で、私が手伝えることがあるのではいかと思いました」
こうして、福島の三浦屋では聖也さんの祖父母と母、聖也さん、佳八子さんの5人体制が出来上がりました。佳八子さんは学んできたことを活かし、ショップカードやスタンプ、オリジナルの袋などを提案していきます。聖也さんによる新商品の提供と佳八子さんのデザイン、そしてSNSでの発信。お店の雰囲気は、ずいぶんと変わりました。コロナ禍で自宅でのケーキ需要が伸びたこともあり、二人が働くようになってから、売上は1.5~2倍になったと言います。
しかし、ある日、突然聖也さんが倒れてしまいます。実はそれまでお店に定休日はなく、文字通り毎日のように働いていたのです。加えて、昼間は祖父が厨房を使うので、聖也さんは夜中にケーキを作る毎日でした。休みのない昼夜逆転の日々に、当時26歳の聖也さんの体が悲鳴を上げていました。
毎日お店を開けることへの祖父の強い思いもありましたが、それを契機に、三浦屋は定休日を設けるように。お客様も定休日を覚えて営業日に買いに来てくれるので、休みを設けても売上を維持できることも分かりました。
その後、聖也さんは無事回復し、お店の営業も順風満帆に。一方で、祖父からの事業承継についてはなかなか家族の決心がつかない状況が続いていました。そこで東京へ修行に行くことを提案したのは、佳八子さんの方だったと言います。
佳八子 「もう少し東京で修行したかったという思いは、ずっと聞いていましたし。なら、このタイミングでもうちょっと学ばせてもらえば良いんじゃないかなと思いました」
聖也 「当初は、やはり家族の理解を得るのは簡単ではなかったです。でも東京に行ったきりではなく福島と東京の2拠点生活を送ること、毎月一週間は福島に帰ることを伝えて、送り出してもらうことができました。毎月帰ることで、実家のお店のスタイルも大きく変えることなく済んでいます」
福島にいる一週間、聖也さんは冷凍した方が美味しさが増すお菓子や日持ちがするものなどを製造します。実家を忘れず、約束通り毎月帰ってくるお二人に、今ではご家族も東京での修行を応援してくれています。
こうして2023年、毎月1週間を福島、残りの3週間を東京で過ごす2拠点生活がスタートしました。
東京にいる間、聖也さんは世界的なパティスリー「ピエール・エルメ」で週3-4回程勤務し、日曜日は友人2人が営む埼玉のシェアキッチンで働くように。佳八子さんは、大学で学んだ木工の技術を活かし、週に4日ほどフロアや建具の傷を修復するリペア職人として働くこととなりました。
そんな生活がしばらく続き、湧き上がってきたのが、「東京でも自分のお菓子を提供したい」という思い。自宅近くの小金井周辺で店舗を探し始めましたが、東京という場所柄、どんなに小さな物件でも初期費用はばかにならず、物件探しは難航したと言います。そこで、初期費用が抑えられるシェアキッチンに目を向けた矢先に出会ったのが、小金井市内の創業支援施設MA-TOにあるシェアキッチン8Kです。早速見学し気に入った二人は、これまでの仕事に加え、2024年4月に「喫茶ほしのこ」をスタートしました。
聖也 「見学しに行ってから契約まで2週間、準備して2週間という早さでオープンしました」
佳八子 「オープンしてから商品など様々なことを決める感じで慌ただしかったのですが、逆にそれが良かったのだと思います。メニューを作り込んでから開けようと考えていたら、いつまでも始められなかったんじゃないかな」
喫茶ほしのこでは、フレーバーの異なるフィナンシェを5-7種類にコーヒー、それと季節ごとのデザートを販売しています。オープンした4月中旬は、温かくなってきて焼き菓子の売上が落ち始める時期でした。そこで、二人が始めたのが、かき氷の販売。パティシエが作るかき氷は見た目の美しさも味の変化もパフェのよう。さらに溶けた時にスープにもなり、この夏多くの人の舌を楽しませました。
聖也 「毎回違うものを作ったり、お客様の目の前で仕上げたり。お客様から直接感想を聞けるのが嬉しかったですね」
福島の実家では難しかったイートイン。毎回違う物を作る即興性や、お客様とのコミュニケーションをシェアキッチンで実現しています。
また、高架下に集まる他の創業者とも、お互いを行き来するような関係性が築けていると話します。
佳八子 「東小金井の高架下の創業支援施設を利用している人たちが集まって、『ヒガコストリート盛り上げ隊』という商店街組合のようなものが発足したんです。シェアキッチンから物販や飲食の常設店、キッチンカーの店主が集まり、イベントなどをやってこのエリアを盛り上げようという目的で。それがすごく楽しいし、いろんなお店の人と話すようにもなりました。周りに素敵な人が多いし、居心地が良いですね」
2拠点生活が始まって約一年半。小金井のシェアキッチンでの営業に、ピエール・エルメと大宮での友人たちとの仕事、そして福島の洋菓子店。聖也さんは、今の生活を「インプットとアウトプットが上手くいっている」と表現します。
聖也 「ピエール・エルメで学べることも多いんです。香りやフレーバーが多く、毎月メニューが変わるので、味の組み合わせや考え方が勉強になっています。お客様の前でデザートを仕上げるので、コミュニケーションを取るために素材の知識や特徴などを自然と自分で学ぶようにもなっています。そうしたインプットも多いし、吸収したことをシェアキッチンでアウトプットする機会もあって、すごくバランスが良いですね」
今の生活については、佳八子さんも「良い時間が送れている」と話します。
佳八子 「関西に研修に行ってパティシエ仲間に会ったり、他の洋菓子店の物を食べたり。去年は台湾にチョコレート研修にも行きました。カカオ農園に行き、台湾のお店をまわって。そこで出会ったスパイスにインスピレーションを受けて試作をし、新商品も生まれました」
また、福島への帰省もそれほど負担になっていないと言います。
聖也 「東京に来てから、喫茶ほしのこの営業日以外はお互い職場が別々なので、福島にいる時ほど二人で話す時間はないんです。福島に帰る4時間くらいのドライブが、今後について話す良い時間になっています」
二人に与えられた現在の2拠点生活の時間は、様々なことを吸収し、将来に向けてそれを生かすための大事な栄養期間となっているようです。
まだまだ労働環境は過酷なケースが多い洋菓子業界。これからを考える上で、「健康に長く働く」ことも二人にとって大きなキーワードになっているそうです。
佳八子 「東京での生活で、夜寝て、朝起きて、ご飯を食べるという基本的なことが適えられるようになって。夫も持病を抱えているので、どうやったら生活のリズムを維持しながら健康に長くこの仕事を続けていけるのか、ということを考えるようになりました。福島で従業員を雇うならホワイトな職場環境で働いてもらいたいとも考えています」
さらに、若い人にチャンスを与えたいという夢も。
聖也 「たとえば、仕事が終わった後に若い従業員が自分のブランドで自分の商品を作れるようなシェアキッチンをお店に持てたら良いなと思います。従業員に限らず、若い人たちのチャレンジする足がかりになるような場所を、自分たちのお店の一角に設けられたら良いですね」
佳八子 「会津地方のお店のある地域は、過疎高齢化地域で私たちより下の世代がほとんどいないんです。空き店舗や空き家も多く、帰りたくても仕事がなくて帰れないという人も少なくありません。MA-TOのように小さなお店同士で助け合えるような仕組みを地域に持って帰って、そういった人たちにチャレンジするきっかけを与えられたらと思います」
しばらくは2拠点生活を続ける予定の二人。シェアキッチンに加え、オンライン販売やイベント出店、レシピ監修などを目指したいと語ります。そして実は「喫茶ほしのこ」という名前にも、これからのお店への思いが込められていました。
聖也 「『星の子ども達』という意味で付けました。一緒にお菓子を製造している母方の祖父の苗字が『星』なんです」
佳八子 「実家のある福島のまちは、星空の綺麗なまちとしてまちづくりを頑張っています。山奥で、流れ星がヒューヒューと見えるくらい、本当に綺麗。その星のように、心の中に小さな星がキラっと光るようなお菓子を作りたい。キラキラときらびやかな感じではなく、寒空の中に星が一つキラリと光るようなお店。祖父の姓に、そんな思いを込めています」
明るく、時折冗談を交えながら語ってくれる聖也さんと、聖也さんをやさしく包み込み、その夢を自分の夢ともしている佳八子さん。何でも話し、支え合い、まさに出会うべくして出会ったお二人です。自分たちの夢だけではなく、会津の地域への愛も感じるお二人のお話は、未来への希望で満ち溢れていました。(酒井)
共に福島県出身。「御菓子司三浦屋」を家族で営んでいたが、2023年夫婦で上京。東京で修業を積むため、南会津と東京での2拠点生活を始める。2024年より、小金井市にある創業支援施設「MA-TO」のシェアキッチン8Kにて「喫茶ほしのこ」をオープン。