村上春樹『武蔵境のありくい』このまちである理由

2025.06.06
村上春樹『武蔵境のありくい』このまちである理由

『新潮』2025年5月号、『武蔵境のありくい――〈夏帆〉その2』。書店をふらついていたら目に飛び込んできて驚きました。村上春樹最新作の舞台が武蔵境!?しかもタイトルにまでなっている。これはさぞ沸き立つ武蔵境…と思ったら、意外と知らない人も多く、反応はいたって静かな気がします。月刊誌ということもあってか、駅前の書店からも控えめなポップもろとも早々に姿を消してしまいました。皆さんは読みましたか?

前作から1年、待望の新作として発表された130枚の中篇小説。
〈夏帆〉というのは、同じく新潮の2024年6月号、創刊120周年を記念した1冊に掲載された作品で、今回もその夏帆が主人公です。

夏帆を武蔵境の地に導いたのは一匹のありくいだった。

「いいですか、あなたは武蔵境に越さなくてはなりません。それも今すぐに。そこがあなたのいるべき場所です」。

書き出しの一文、そして物語の最後まで、とにかく「武蔵境」が頻出します。
作品に具体的な地名が出てくることはめずらしくありませんが、逆に「東京都A市」といったぼかし方をしている場合もあり、ここまでストレートに、明らかに意図を持って使っているのは気になります。
村上さんは三鷹に暮らしていた時期があり、1970年代には国分寺でジャズ喫茶をしていたのも有名な話ですから、間違いなく、場所への肌感覚もあって書いているはずです。

「おれは学生のときに何度か武蔵境に行ったことがあるけどさ、あれはひでえところだぞ。まさに文明の果つるところだ」

武蔵境への引越しを考える夏帆に、新小岩駅の近くで小さな洋食レストランを経営する叔父はこうも言います。

「武蔵境なんて、だいたい名前からして辺境そのものじゃねえか。まっとうな人間の住むところじゃねえよ。」

まったくひどい言われようですが、真に受けているわけでもない夏帆はやがて、武蔵境駅からバスに乗って15分ほどの場所にある平屋の一軒家を借ります。この家で、夏帆はふさふさした太い立派な尻尾のありくいと対面し、家と駅前の商店街を舞台として、物語は続いていきます。

村上さんの作品に感じる独特のムードに「これこれ」と浸りながら一読し、読み解く目線で改めて見つめてみると、新潮の公式サイトにある「編集長から」が大いに頼りになりました。

(一部抜粋)謎が謎を呼び、現実と虚構、都市と郊外の境目に位置する街の様子が変化する。夏帆の姿を通し、小説家自身の創作の根源にも迫るような一篇だ

イラストレーターで絵本作家でもある夏帆は、ありくいに出会い、現実と「夢」とを行き来するような日常の傍ら、スケッチブックを開いてありくいの物語をつくりはじめます。
夢か現実か疑いたくなる状況、23区から「文明の果つる」場所への引越し。夏帆はいくつもの境目に身を置いているように感じます。境、あるいは何かのふち、何かと何かが混じり合うところには、物語が生まれやすい“場所の力”があるのでしょうか。

武蔵境? どうして武蔵境なのだろう?

夏帆は何度もその問いを心の中に抱き、時にありくいにも尋ねますが、はっきりとした答えは返ってきません。ちらほらと目にする読了後の感想でも、「武蔵境である理由はないらしい」「武蔵境というけれど知った風景は出てこなかった」というコメントがあります。(あと、叔父のセリフに憤慨する武蔵境愛あふれるコメントもいくつか)

けれど、舞台は武蔵境であるべくして決められたのではないかとも思えます。地名としても、実際の立地としても、武蔵境はこれ以上なく、境目を象徴する場所です。

もっとも、武蔵境という地名の歴史を辿ると、江戸時代、松江藩の家来・境本絺馬太夫が開発に関わったことから“境”という文字が採用された説が濃厚らしく、どちらかというと、文字の意味合いを場所に紐づけると、という順序の方がしっくりくるのかもしれません。

いずれにせよ、村上さんの意図とはまったく別のところで浮かんだ一読者のつぶやきに過ぎませんが、『武蔵境のありくい』は、創作という方法で武蔵境という場所の特徴、潜在的な力のようなものを示しているように思えます。
先月文庫化されたばかりの村上さんの新作長編『街とその不確かな壁』も、こうなってくるとかなり意味深です。こちらの主人公の「ぼく」は郊外住宅地に、「きみ」は都市の中心部に住んでいると説明されます。

 

実はわたしも夏帆の家とおそらく同じあたり、武蔵境の駅から少し離れたところに暮らしています。土地勘のない方に向けて念のため、ここには当然、文明も文化もあるぜ、かっこいい図書館とかもあるんだぜということを、武蔵境民として申し添えておきます。
ただ、毎年家の前の草むらに現れてくれる狸とは顔馴染み(?)なので、夏帆の叔父さんが狸に化かされたと語るのもあながち否定できません。そういう一面こそ大好きなのでノーダメージですが。

少しネタバレとして、作中で武蔵境は“とにかくここに行けば安全”な場所として描かれていますので、地元がひどく言われるのなんて見ていられない!という方もご安心を。村上さん、武蔵境へのツンデレがすごいです。(ツンデレではない)

ハルキスト(村上春樹ファンの愛称)の皆さんの読み解きも気になるので、「作品の舞台になる場所にはこういうエピソードもあるよ」なんてお話があれば、ぜひ教えてください。

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