“I am here”と“You are here”

2025.07.25
“I am here”と“You are here”

最近、「推し活」の世界では、なんと証明写真が大人気。アイドルやアニメ、漫画のヒーロー、サンリオやディズニーのキャラクターまで、こぞって証明写真が販売されています。ついには、全く知らない誰かの証明写真が当たるガチャガチャ、なんてものも登場。とてもシュールな証明写真ブーム、あなたはどうみますか?

他人の証明写真をスマホに飾る?

かく言う私も、証明写真ブームに乗っかったひとり。私の推しは証明写真を販売していなかったので、写真をプリンターで印刷し、自作しました(個人の範囲で楽しみましょうね!)。

街中では、大人気の「赤の他人の証明写真ガチャ」を探し当て、知らないおじさんや、どこかの赤ちゃんの証明写真をゲットし、大盛り上がり。手に入れた証明写真は、切り離して透明なスマホカバーに挟んだり、ストラップにして持ち歩いたり、周りをシールでデコレーションして楽しんでいます。

真顔で正面を見つめる「他人」の証明写真を持ち歩く—。冷静になってみると、なかなかにシュールな光景です。証明写真なんて、そもそも身分証明のために仕方なく撮るもの。ありのままの自分が映る、加工ができず盛れない、映りが悪かった…などなど、嫌な思い出の方が多いように思うけれど、どうして今ブームになっているのでしょう?

ふと思い出したのは、大学時代に教授から聞いた話。それは、現代の表現活動の多くが“I am here(私は存在している)”を主張するものである、ということ。例えば、カフェで飲んだコーヒーの写真を撮ってSNSに載せること、みんなが何気なくしているこんな行動も、“I am here”の表現である、と。

SNSを覗けば、魅力的なひとやものが溢れ、カスタマイズされた「おすすめ」に楽しく踊る。自分の本当に好きだったもの、やりたかったことは何だったのか。自分自身を見失いやすくなってしまったこの時代に、私達は身近な表現ツールで、無意識的に「わたし」の存在を主張したいのです。(そもそも「推し活」自体、推しに対する愛を示す自分自身の誇示である、自己愛である、なんて言われ方もしていますよね。)

あなたと私の存在証明

では、証明写真はどうでしょうか。単に、写真の役割の点だけでみると、究極の”I am here”。明らかに意図的な存在証明です。一方で、SNSにアップする写真とは違って、(たとえ映りが良かったとしても)人にはなるべく見せたくない。“I am here”の証明のために撮影されるのに、“I am here”を個人が表現するためには使われないという、とても変わった位置づけにあります。

証明写真は、非常に公的で、公的過ぎるばかりにとても個人的なもの。自分が見せたい姿を魅力的に写すブロマイドや、見せたい日常を選んで掲載するオフショットとはまた違って、証明写真は限りなくその人「個人」に近しい。

そんな「個人」の姿を映した、赤の他人の証明写真をスマホカバーに飾ることは、“You are here(あなたは存在している)”の表現なのではないか。誰かのために微笑んでいるわけでもない、できれば隠したい、そのまんまの相手「個人」の存在を肯定することで、自分の存在もまた肯定される、ということなのかもしれない。情報社会に暮らす私達は、お互いに肯定しあい、認め合って生きていきたいのではないか…。

「画面の中のひと」であるアイドルは、遠すぎて存在を疑うこともあるし、大好きなアニメキャラクターは、そもそも実在しない。でも、私はその人の証明写真を持っている。あなたは知らない他人だし、同じ世界にすら生きていないかもしれないけれど、私は、あなたが存在することをここに認めましょう。私達、いつか自分の証明写真を、堂々とスマホの裏に入れられるようになりたいですね。(小出)

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