新型コロナウイルスの感染拡大により、日常にさまざまな変化が訪れてから早くも3年の月日が流れました。この3年という間に、今までのはたらき方や大切な人たちとの関わり、そしてこれからの生き方について、自分自身と向き合った方も多いのではないでしょうか。
2022年3月、東京都調布市にオープンしたカフェ「Paston(パストン)」の店長・小黒奈央(おぐろなお)さんもその一人です。小黒さんは新宿のゴールデン街でバーを経営していましたが、コロナの影響による営業自粛や時短要請に従ったため、2年近く通常営業をすることができなかったそうです。そんな最中、実家のそばでPastonを開くことを決めた背景には、お母さんと愛犬という家族の存在がありました。今は新宿のバーと地元のカフェ、菓子通販店の3つのお店を経営している小黒さんに、お店づくりやはたらき方についてうかがいました。
「もともとは、母がお菓子やパンの教室を持ちたかったんです。でも、コロナの影響もあって教室を立ち上げるのは現実的でなくて」
小黒さんのお母さんは、30年以上お菓子やパンの研究家として活動してきたそうです。小黒さんは教室の立ち上げが難しくてもできることから始めようと、インターネットを使ってお菓子の通信販売を手伝ったそう。 それが、菓子通販店POSTのオープンにつながりました。
「でも、通信販売って制限が多くて。実店舗を持てたらいいのに…と思っていました」
いつか、カフェを開きたい…そんな夢を抱いていた最中、SNSを通じてタウンキッチンが運営するウェブマガジン・リンジンの記事を読み、同じように個人でお店を運営する人たちの存 在を知って「この会社なら、面白い物件を知っていそうだな」と感じたといいます。この予感は、見事に的中しました。
「お店の売上は物件の立地で決まりますし、すぐにいい場所が見つかるとは思わなかったんですが…。物件を3件紹介してもらって、半日悩んで決めました(笑)」
選んだ物件は、ご自身が生まれ育った調布市にある平屋でした。壁は打ちっぱなしでキッチンもなく、あるのは店前の通称“タコ公園”だけ。しかし、犬同伴可能なカフェを開きたいと 考えていた小黒さんにとって、犬の散歩コースになりやすい公園前という立地はとても魅力 的だったといいます。このような好条件の物件はもう出ないと思い、契約を決めたそうです。
「正直、最初は自分が生まれ育った地元でお店を開くことは想像していませんでした。私が思春期だった頃とか、ずっと調布市をひどい田舎だと思っていたので。でも、ここ10年くらいで街の開発も進んで、久しぶりにじっくり街の様子を眺めたら『あれ、意外と調布もいいかも?』と思えたんです(笑) 調布駅から徒歩7分という距離感もよかったですね」
物件を契約後、銀行に融資を頼みにいくと「先に物件決めちゃったの?」と担当者に驚かれ たそう。その時の様子を小黒さんは笑顔で語ります。この行動力こそ、新しいことをはじめる秘訣なのかもしれません。
なぜ、小黒さんは犬同伴可能なカフェを開いたのでしょうか。そのきっかけは、コロナの影響によりバーの休業を余儀なくされた頃に遡ります。
「2年くらいまともにはたらけない時期があって、そのタイミングで犬を飼いはじめたんです。お世話する時間もたっぷりあったから、生活は自然と犬中心になりました」
犬と一緒にくらすようになってから、自分自身への向き合い方も変わったという小黒さん。犬を飼う前は予定を詰めすぎたり、自分の体を労らないことも多かったそうですが、飼い始めてからは自分の健康面にも気をつかうようになったそうです。
「今後は仕事を始めても犬と散歩に行ける生活リズムを保とうと思っています。朝、犬の散歩に行ってからお昼に仕事して、夕方には帰って犬の散歩をする、みたいな。だから、 Pastonはワンちゃんも入れるお店なんです。私が犬と出勤したかったので(笑)」
小黒さんは犬を飼い始めてから、犬と一緒に出かけられる場所の少なさに驚いたそう。一緒に入れるお店があったとしても、犬か人のどちらか片方に寄せられたコンセプトだと感じることが多かったといいます。
「犬と人、どちらかに寄せすぎない、どちらにとっても居心地の良い空間をPastonで作りたいと思いました」
犬にも人にも、気軽に来てもらえるお店にしたい。そのために小黒さんが特に力を入れたのが、お店の内装とメニューでした。
Pastonのインテリアは、お母さんの友人のアンティーク用品を譲り受けたもの。照明器具や時計、絵画など華やかで重厚感のあるアンティーク用品を活かすため、店内の壁はブルーグレーにして、什器の棚やカウンターテーブルは木材でシンプルに仕上げました。
「アンティーク品は1920年代をはじめとしたもので、いわゆる“本物”ばかり。あえてアンティークをモダンナチュラルなテイストの中に配置して、良い意味で目立たせ過ぎず、空間に馴染むようにしました」
そして、お店のメニュー表には、50品以上に渡ってバラエティ豊かな料理やデザートが並びます。愛犬家の小黒さんらしく、ワンちゃんもに嬉しいメニューが多数あり、国産鶏胸肉ソーセージカッテージチーズ添えなど本格的なメニューばかり。
食事とドリンクメニューは小黒さん、パンとお菓子のメニューは小黒さんのお母さんが担当です。
「幼稚園から大学生くらいの頃まで、毎年母親に連れられてフランスやイタリアに行ってたんです。現地で菓子やパンを食べて、研究するのが目的でした」
小さな頃から母親に連れられて、旅先の料理を食べることが多かったという小黒さん。料理はそんな海外の料理たちからインスピレーションを受けているそうです。野菜は地元・調布の野菜直売所から買いつけており、「今後は農家さんと直接つながっていけたらいいなと思っています」と言います。
そして、これからのPastonについてこう語ってくれました。
「2022年3月にオープンしてから、やっといろんなことが固まってきました。内装も一から作って、メニューも考えて、少しずつですができてきたなと感じます。でもメニューは常に試行錯誤しているので、これからもどんどん変わっていくとは思いますね。ワンちゃん用のお食事プレートや、その場でしか食べられない出来立てのデザートを作っていきたいです」
また、小黒さんは新宿のバーで働いているとき、いろいろな職種や人種の方に会えることが楽しかったそう。Pastonでも年齢や性別に関係なく、いろいろな方に好きな方法で過ごしてほしいといいます。
「カフェには広場のように誰でもフラッと立ち寄れる気軽さがあると思いますし、これからもいろんな人や犬に来てほしいです」
一人でコーヒーを飲みながら本を読んだり、親子で揃って食事をしたり、犬を介してお客さん同士で会話を楽しんだりと、その人が自然でいられる距離感を保ちながら、Pastonでの時間を楽しんでもらいたいのだそうです。
現在、新宿のゴールデン街にあるバー、調布のカフェPastonを経営する小黒さん。バーはお客さんとスタッフの間で居心地の良い“ホーム感”があり、片やPastonはバーよりキッチンが広いためたくさんの料理が提供できたりと、どちらのお店も違った面白さがあるといいます。
「新宿のバーも調布のPastonも、人の生活の中にある仕事という観点では一緒だなと思い ます。どちらも生活必需品ではなく、あくまで余暇のものだと思うんです。それでも楽しみや息抜きのために、お客さんたちは時間を使ってきてくれる。複数のお店を運営するのは大変ですが、できるなら両方続けていきたいですね」
新宿と調布、それぞれのお店は立地も客層も大きく異なりますが、一番の違いは母親と共同運営しているという点。Pastonのメニューや運営方針について、時には親子で論争になることも多いのだとか。
「母とはめっちゃぶつかります(笑) 今もまさに“家族と一緒にやるの難しい期”です。余裕がないときは特にぶつかることが多いですね。そういうときどうしたら現状を打破できるのか、 それもまだよくわからなくて。どうしたら良いのかを模索しながら一緒にやっています」
家族という近しい存在だからこその難しさ。お互い、Pastonを大切に想うからこそ譲れない気持ちがあるといいます。小黒さんは「それでもやるしかないんです。母と一緒に店を持つ と決めたから、大変でもどうにかやるしかない」と静かに、でも力強く答えます。
「やるしかない、ということがあるのは良いことですよね。そうしないと『別にいいか』って、いつまでもずるずる先延ばしにしてしまうから」
小黒さんは新型コロナウイルスの感染拡大をきっかけに休業したとき、お母さんにお菓子作りを習ったそうです。大人になって改めて、お菓子作りに向き合う母を見て尊敬の気持ちがわいたといいます。母と自分は違う価値観を持ち、違った生き方をしているけど、自分は確かに母の影響を受けて育っている。「お菓子作りはとても勉強になったし、楽しかった」と小黒さんは語ります。
「母は、お菓子オタクなんです。しごとのときはもちろん、しごとじゃないときも家でずっとお菓子を作ってる。お菓子やパンを作ることが彼女のライフワークなんでしょうね。私が子どもの頃は、母が作った名前のないお菓子たちがおやつでした。派手ではありませんが、昔からあるお菓子のルーツを尊重し、その上で日本の環境に合わせて独自に改良したお菓子ばかりです。母のお菓子を食べれば、彼女のお菓子に対するリスペクトやマメな人間性が伝わると思います。ぜひ食べてほしいですね」
「母はもちろん、キリマンジャロくん(小黒さんの愛犬)とも一緒にPastonを盛り上げていきたいですね。私が犬と一緒に出勤したいという気持ちもあってPastonを犬連れOKにしたんですが、肝心のキリマンジャロくんはお客さまに吠えてしまうので出禁に……(笑) もう少し大人になったら、また連れてきたいです」
「関係性が近しい人だからこそ一緒にやることは難しい」。そう小黒さんは家族経営の難しさを語ります。しかし家族という立場から誰よりも近く、お菓子やパン作りに情熱を注ぐ母や、 かつてこれまで通りに働くことができなくなった自分を精神的に支えてくれた愛犬の存在を感じてきたからこそ、そんな大切な家族と共にお店を続けたいと思うのかもしれません。きっとそう遠くない未来、小黒さんとお母さん、そしてキリマンジャロくんがPastonで賑やかに過ごす風景が見れるのでしょう。(すずき)
カフェ「 Paston(パストン)」店主 。老舗有名店でのバイトや雇われ店長の経験を経て、2017年に新宿ゴールデン街にてバー「シーホース」をオープン。独学で習得した手作りのおつまみなどを提供し、“次世代のママ”としてテレビ番組や雑誌などに出演。2020年12月に実家をリフォームし、パン・菓子研究家である母の小黒きみえさんと通信販売事業を行う傍ら、地元・調布町でのカフェ開業を考案。その後、2022年3月に調布市にてPastonをオープン。母と娘で共同運営をしている。飼っている黒柴・キリマンジャロくんをこよなく愛する愛犬家。
https://www.instagram.com/pastonkun/