おいしいごはんづくりが得意な女性にとって、たくさんの人が自分のごはんを「おいしい!」と食べてくれるのは、とても幸せなことです。カフェのしごとはそんな人にぴったりですが、家事や育児をしながら……となると、なかなか荷が重いもの。今回は、お子さんが通う幼稚園で出会ったママたちと協力して素敵なカフェに携わっている櫻井百理さんにお話を伺いました。
2017年3月にオープンしたMusashinoはけの森カフェ。小金井市立はけの森美術館の敷地内にある洋画家・中村研一氏の住居を改装し、附属喫茶棟として民間事業者が運営しています。このカフェで調理を担当しているのが櫻井百理さん。小学生になる2人の女の子のママさんです。地元の小金井市内で採れた四季折々の旬の野菜を中心に、「素材の味を大切に、できるだけシンプルに」を心がけた料理とデザートを提供しています。
櫻井さんは最初から調理のしごとをしていたわけではありません。学生時代は「とにかく何かつくりたい!」という熱意のおもむくままに、絵を描いたり、彫金をしたり、あれこれ挑戦したそうです。そして、最初に就職したのが東京・御徒町の宝飾会社でした。
「彫金の知識が生かせるかな、と思ったんです。『ダイヤを送ってください』ってインドに日本語で電話したり(笑)、1億円の宝石を触らせてもらったりと、いろいろな経験ができてしごとは楽しかったんですけどね……。先輩姉さんたちとの会話がどうにもこうにも私には合わなくて、3年頑張って、辞めました」と当時を苦笑いで振り返ります。
生活のためにしごとを探し始めたとき、思い出したのは学生時代の楽しかった飲食店でのアルバイト経験でした。飲食店ならおいしいものも食べられる!どうせなら、有名店で!と、当時住んでいた阿佐ヶ谷で行列のできる中華料理店ではたらき始めます。そのころは料理をしたいという気持ちもまだなく、接客のしごとをしていました。ところが、店があまりにも忙しく、調理担当の人たちがだんだん疲弊していく様子を目の当たりにし、「私にもできること、ありませんか?」と声を上げたそうです。「どうぞ、どうぞ、という感じで調理場に入れてもらえて(笑)」、そこから櫻井さんの「ごはんをつくる」生活がスタートしました。
阿佐ヶ谷の中華料理店で初めて料理の楽しさを知った櫻井さんはその後、中華料理店の閉店を機に、いくつかの店ではたらいてきました。1990年代後半から2000年代にかけてカフェブームを牽引したと言われる南青山のIDEE SHOP(イデーショップ)もそのうちの1店。さまざまな店で経験を積みながらも、心のどこかで「まだまだ自分は真似っこだ」という気持ちがあったそうです。
「私がやりたいのはこれじゃない。もっと料理のことを教わりたい、学びたい」という気持ちがどんどん膨らみ、探し当てたのが西荻窪のカフェ・レストランBALTHAZAR(バルタザール)でした。バルタザールは、西荻窪で40年以上前から有機野菜を販売する長本兄弟商会という八百屋さんが経営しています。
バルタザールでは野菜や肉、魚など素材の扱い方を一から教わり、それまでの考え方が全部覆されたような感覚だったそうです。経験を積めば積むほど、「こうしなければいけない」という考えにとらわれ、頭がガチガチになっていたのです。おいしい野菜は塩だけで十分、同じ野菜でも産地や季節によって味が違うから、野菜と相談して味付けを変えるなど、バルタザールで学んだことが今の櫻井さんの料理の原点になっています。
「調理担当の二人のお姉さま方が、どうするともっとおいしくなるか、建設的な意見を交わすのも刺激的でした。辞めてから10年ほど経ちますが、いまだにそのときの料理を作りますね」という櫻井さん、学びたいと膨らんだ気持ちが十分に満たされていった時期でした。
バルタザールで濃密な3年間を過ごし、出産・育児に専念するため、いったん料理の世界から離れました。新しい生活の拠点となった小金井市で2人のお子さんと一緒にのんびり過ごしていた櫻井さんに、カフェではたらいていた友人から声がかかります。引っ越すことになったから、自分の代わりにはたらいてくれないか、という打診でした。
二人目のお子さんが生まれたばかりだったので迷いはありました。しかし、週に1回、1ヶ月半だけという条件だったことと、やはり誰かに料理を食べてもらわないと腕が落ちると感じていたことが後押しとなり、下のお子さんをおんぶしながら調理場に立つことを決めました。
思いがけない形で再び料理の世界に戻ることになった櫻井さん。そのカフェから新たな縁ができ、自宅近くのギャラリーカフェ、シャトー2Fではたらくことになりました。お子さんが小さい時期だったので、基本的には週に1回はたらくスタイルでしたが、土日で店が忙しいときには駆けつけるなど臨機応変に対応していたそうです。
当時のシャトー2Fは、ギャラリーカフェというスタイルでやっていこうという黎明期で、飲食店としては発展途上にありました。櫻井さんもほかのスタッフと一緒に、調理するだけでなくお客さんが来てくれる店にするためにどうすれば良いかを考える日々が続きました。
しごとと育児を両立させるため、「無我夢中だった……」と振り返る櫻井さん、「しごとでは、みんなでおいしいものを作ろうと一生懸命で、バルタザール時代のメモをひっくり返したりしていました。でも本当に集客が大変で……もがいている私たちを農家さんや飲食関係の方々が心配して店に来てくれ、一気に小金井市内の知り合いが増えていったんです」。また、育児では、平日急に店に出ることになっても、同じ幼稚園のママたちが櫻井さんのお子さんの面倒を見てくれ、公私共に本当に周囲の力に助けられたと言います。
シャトー2Fでお客さんが集まる店づくりを模索する日々が4年ほど続き、新たな転機が訪れました。はけの森美術館の附属喫茶棟に入っていた店が退店し、運営を担うことになった会社の人から、「やってみない?」と声をかけられたのです。
「えーっ!?と思いましたよ。まず、私一人では無理、と。でも、一緒にシャトー2Fで働いていた子が独立してつくったカフェが、あっという間に吉祥寺で人気店になっていたり……という刺激もあって、やれるならやってみたいという気持ちもありました」。
そんなとき頭に思い浮かんだのは、上のお子さんが幼稚園に通っている間に仲良くなった3人のママ友達のことです。幼稚園で同じ係になって、1年間ずっと一緒にあれこれ幼稚園のしごとをし、一緒にごはんを食べ、お酒を飲んで行くうちに、お互いを知り、心から打ち解け合う関係になっていました。その3人に「一緒にやってもらえない?」と声をかけたところ快諾してくれ、4人で「はけの森カフェ」をスタートさせることになったのです。
料理な得意な櫻井さん、リーダー的な存在の人、ネットに詳しい人、洋服づくりが得意な人、アクセサリーを手作りする人など、それぞれ得意なことや個性があり、「この3人が一緒でなければできなかった」と、櫻井さんは全幅の信頼を置いています。
ただ、4人ともはっきりと意見を言うので、「しごとでぶつかることも多い」と笑って教えてくれました。もともと仲が良かったので、しごととプライベートを完全に切り離して考えていて、しごとで大喧嘩をしてもプライベートにまで引きずられることはないそうです。
今は6人のママさんと、高校生1人の7人の女性でカフェを切り盛りしています。はたらく時間を決めるシフトは、全員で集まって組んでいるそう。オープン当初は運営を担っている会社の人がシフトを組んでいましたが、試行錯誤を繰り返し、今はスタッフ各自がスケジュール調整サービスの伝助にあらかじめ予定を入力し、それを見ながら、できる人が、できるときにはたらくというスタイルに落ち着きました。最初は調整に時間がかかったものの、徐々にパターンができ、今ではさっと集まって5分くらいで決めてしまえるそうです。
カフェの日々の様子をFacebookでアップする人、写真を撮るのが上手な人がInstagramを始めるなど、スタッフそれぞれが得意なこと、できることを自分の役割として楽しみながらやっています。
はけの森カフェは今後、どのようになっていくのでしょうか。
はけの森美術館附属のカフェとして、スタッフ全員でつくり出すあたたかな雰囲気とおいしい料理とで訪れる人がくつろげる空間を提供したり、美術館の企画と連動したメニューやイベントを考案していきます。そして、小金井市内のイベントから声をかけてもらえるような存在になれるといいな、と櫻井さんは言います。
櫻井さん自身は、料理をすることが生活の一部になっているので、おばあちゃんになったら定食屋さんをやりたいと思っているそうです。でも今は、まず、はけの森カフェのスタッフにおいしい!と言ってもらえる料理をつくり続けることが一番の目標です。お客さんからの「おいしい」もすごくうれしいけれど、身近な人の「おいしい!」は、櫻井さんにとって「やってて良かった」と思える瞬間なのです。
おいしさと愛情と遊び心がぎっしり詰まった櫻井さんの料理は、信頼で結びついたスタッフたちの手でお客さんに届けられていきます。これからも、信頼できるスタッフたちと一緒に、慌てず焦らず、じっくりと、はけの森カフェを育てていくことでしょう。(大垣)
中華料理店からスタートして、数店の飲食店で調理の経験を積み、西荻窪の名店「バルタザール」で“野菜と相談する”料理を学ぶ。旬の素材のおいしさを存分に引き出す料理のほか、見た目も美しいデザートにも定評がある。2017年3月より、「Musashinoはけの森カフェ」で調理を担当。
http://hakenomori-cafe.net