珈琲豆を焙煎する香り、集う大人たち……子どもの頃から「いつか入ってみたい」と思っていた喫茶店。高校生の時にようやくその扉を開け、なんと10年後にはお店を引き継いでいた鈴木一真さん。約20年地域で愛され続けたお店、どうして店主と血縁関係でない一真さんが継承することになったのでしょう。
2019年6月20日にオープンした珈琲の店もっく。東久留米駅西口から歩いて5分のところにあります。訪れたのは平日の朝。店内にはくつろぐお客さん、50年物の焙煎機、ずらりと並ぶ珈琲豆、カウンターで珈琲を淹れる20代の男性。お店に入ると、この空間独特の空気や時間が流れています。
来店した女性が「一真さん、小銭にくずせるかしら」と男性に声をかけると笑顔で小銭を手渡し、受け取るとお店の目の前にある野菜直売所へ。買い物を終えた女性は戻って何事もなかったように珈琲を注文しています。
「いつもこんな感じですよ」と穏やかに話す男性は店主の鈴木一真さん。珈琲を飲みながら作業をしていた男性が突然立ち上がり「ちょっと出るけど戻ってくるから」と荷物を置いたまま外出する様子は、“お客様との信頼関係”だけではないものを感じます。
それもそのはず。ここは20年以上愛され続けてきた珈琲焙煎工房ロアンがあった場所。「お店をオープンしてまだ半年ですが、『この場所を残してくれてありがとう』と言われるとロアンさんを引き継いで良かったと思うしホッとします。もともと僕もこの場所が好きで通っていて、お店にとってのお客様、お客様にとってのお店を肌で感じできた。オリジナリティを出しつつも、愛されてきた雰囲気や居心地はそのまま残したいと思っているんです」。
血縁関係がなく、お客さんの一人だった一真さんが事業承継した理由は何なのでしょうか。
東久留米市で生まれ育った一真さん。ロアンとの出会いは“香り”。お店から自宅まで漂う焙煎した珈琲豆の香ばしい香りに「いつかブラックコーヒーが飲めるようになったら行ってみよう」と子ども心に決めていたそう。「友人宅へ遊びに行くときにお店の前を通るんですが、いつも中の様子をチラ見していたんです」。
“その時”は一真さんが高校2年生にやってきました。「個人店の喫茶店ってハードルが高いじゃないですか。大人の常連さんがいて、当時は畳の囲碁スペースがあったので囲碁もできない若造なんて追い出されるんじゃないかとビビりましたよ(笑)」。
意を決して扉を開けると、50代の店主が一真さんに声をかけました。「来るのをずっと待っていたんだよ」。そう言われた瞬間、「心を射抜かれました。将来、喫茶店をやりたいと思ったのもロアンさんのこの言葉があったから」と一真さん。店主のひとことは、人生が動いた瞬間でもあったのです。
大学生になるとロアンだけでなく通学圏内のカフェや喫茶店に通い、接客や味だけでなく、そのお店が大切にしている雰囲気を感じて自分がお店を持つ夢を膨らませ、休日にはロアンの手伝いをする日々。
「就職も、お店を持つにあたって立地や市場調査の勉強ができる不動産屋に入社し宅建をとりました。その次は水回りの勉強で給排水設備点検の営業マン。『夢があるので定年までいないです』と話したら応援してくださって」。忙しく働きつつも、休日はロアンを手伝い、お店を出したいという夢やカフェ巡りをした感想を店主に話していました。そしてまたもや、店主のひとことで一真さんの人生が動きます。
2017年の秋、「再来年で定年退職の歳だし、引退しようと思う」。ロアンの店主に告げられた一真さんは動揺します。「冗談でそういうことを言いそうな人だったので、またまたそんなと思いながらも、大切な場所がなくなってしまうのは困ると焦りました」。
そんな一真さんに店主が衝撃のひとことを放ちます。
「ここを引き継がないか?」。
なんで血縁関係もない地元に住むお客さんにお店を譲ろうと思ったのか。その理由は「これから先、何年、何十年とお店を守り、お客様の日常に寄り添い続けていくため」だから。
え、僕が?と驚きながらも、引き継ぐと決めた一真さん。それは、ロアンの想いがいつか自分がお店をやりたいという想いの原点であり、幼い自分がお店をチラ見して通り過ぎていたのをずっと見ていてくれた店主の喫茶店だから。「どうしてもやりたいです、やらせてください」とお返事しました」。
しかしそこは誠実な一真さん。会社の仕事の引継ぎなどを考え、ロアンさんに「引き継がないか」と言われて一年後の2019年1月に退職。会社員でなくなってから、お店をオープンする6月20日までロアンで焙煎や接客の修行をしたそうです。
「6月2日にロアンさんが主催する毎年恒例のあじさいまつりがあって地域の皆さんが集まるので、そこで引退セレモニーが行われ、僕が引き継ぐことを発表しました」。
珈琲の店もっくをオープンして半年。常連さんは「ロアンさんの時から来ていて、その時も今も店主の人柄、醸し出す雰囲気に魅かれているから来ています。ここに来れば友達に会えるし一真さんと話せるので癒しの場所。本人は謙遜しますが、一真さんに会いに来るお客さんもたくさんいますよ。良い人だから、ほら、そこにある物販の委託料も取っていない」と笑顔で話します。
生まれ育った町なので、オープンしたら近所に住む友人も来てくれる。新しいお客さんや友人、ロアン時代のお客さんが繋がって楽しそうに話している姿にホッとしつつも、「比較対象はロアンさん。20年間の老舗喫茶店の味や接客を保てているのか?と思うし、20年以上豆を焙煎し続けていたのだから、どうしたって叶わない部分もある」。
それでも自分らしく提供して、営業して、“自分のやりたいこと”は叶えられていると言う一真さん。あのときの自分のような高校生が「香りにつられて来ちゃいました」と扉を開けてくれる瞬間はとても嬉しいし幸せであり、先代から繋いだ“日常”を続けていくことを大切にしたいそうです。地域の活動については「出店するためにお店を閉めるのは違うかなと。いつか人を雇えるようになったら地域のイベントに参加してみたい」としばらくお預け。
「僕は開業するにあたって就職もそのために選んで、緻密にシミュレーションしました。でも1人ではどうしたってやっていけない。資金面など考えるとキリがないけど、叶えたい夢があったら『やりたい』と公言していたら周りの人たちがサポートしてくれることもある。力を借りることを恥と思わず存分に甘えて、スタートしたら恩返ししていけばいいと思うんです」。
今は、趣味のあれこれも返上して休日もお店のことをずっと考えているそう。「片隅どころじゃなく、お店のことで頭がいっぱい」。そんな今がとても楽しいと話す笑顔が充実している日々を物語っていました。
2019年、東久留米市で20年続いた喫茶焙煎工房ロアンを27歳で引き継ぎ、珈琲の店もっくをオープン。先代の想いを受け継ぎ“日常”を大切に営業する。