“共有”や“シェア”という言葉は、この10数年の間に、時代を象徴するキーワードになりました。
場や物を共有することで人をつなげる、あるいは、リスクや価格負担を分散させて利便性の高いサービスを提供する。多くが目新しいものとして受け入れられていますが、少し昔を振り返れば、「お隣さんへ醤油を借りに」と語られるように、何かを共有することは生活の一部でした。
日本が高度経済成長期を迎え、家族や地縁のあり方が変化していく中で人々が歩んできた、共有から私有への移行の道のり。普段から共有だシェアだと口にすることは多いものの、そもそも共有の何に魅力を感じているんだっけ?と思いはじめた編集部の國廣がご紹介するのは、「誰もが自分の居場所を確保できるような共生社会」を目指し、共有と私有を考察する一冊です。
著者は、2012年発刊の『小商いのすすめ』で、経済成長なしでもやっていける社会のあり方として“小商いの哲学”を説いた平川克美さん。この前情報で、気になり度数がかなり上がりました。
最新刊となる本書は、「私小説的論評」。
濃密な地域共同体に属する実家からの逃亡、父親の介護、喫茶店や株式会社の経営など、平川さん自身の極めて個人的な経験をもとに私有制を批判しています。
さらに、時代を読み解く題材として、韓国ドラマや名作映画も多数登場。専門書はあまり読んだことがないという人も、入り込みやすいエピソードがふんだんに語られています。
「わたしたちの社会が抱えているほとんどの問題は、ほんとうのところは二者択一ではなく程度の問題である。」
考察の入口は、二者択一から程度の問題への転換。
地縁や血縁による共同体が身を守る拠り所となっていた時代、「封建的な社会秩序を作っていくのか、それとも自由主義的な社会をめざすのか」は二者択一的な問題でした。どちらかを選ぶということは、時に、少数派を切り捨てることを意味する。程度の問題へとシフトすることで、共生社会を実現する可能性が見えてくると平川さんは読み解きます。
共有/私有とはちょっと違う話題では?と思いきや、平川さんが共有を言い表す、「誰のものでもあり、誰のものでもないというところが勘どころ」という説明は、まさにこの転換によって実現します。
身近にある共有はと思い浮かべると、例えば、最近あちこちのコンビニに増えてきたシェアサイクル。自分で自転車を買うほど頻繁には乗らないし、“乗り捨て”できるのが便利なのでたまにお世話になっています。会員になれば誰でも借りることはできますが、「今乗っているその自転車は誰のもの?」と問われると、そこはやっぱり運営会社の所有物という気がします。
私有している財産を、所有者が管理したまま、ほかの誰かと共有する。共生社会を築くための共有とは、果たしてどのようなあり方でしょうか。
共有を深堀りするにあたって、家族の崩壊、共同体のあり方についてなど、いくつかの重要な論点が登場します。その一つが、資本主義について。
平川さんが開業した喫茶店「隣町珈琲(となりまちカフェ)」が移転を余儀なくされたとき、投資家を探すでも、銀行から借金をするでも、流行りはじめたクラウドファンディングをするでもなく、“喜捨(きしゃ/寄付のこと)”を募る“勧進(かんじん)”という日本古来の方法を取りました。その背景の一つには、「資本主義の本丸」である株式会社という形式への疑問があったようです。
「(共有地とは)わたしが所有しているものの『所有格』を解除して、同じ場所に集まる他人にちょっと貸してあげられる『場』であり、他人が喜捨してくれたものを自分も借りられる『場』です」
喜捨という方法を取ったことで、喫茶店ははじめて、「誰のものでもない」という性質を獲得したと言うこともできそうです。
しばしば、「場を開く」という言い方を耳にします。
事業アイデアをもとに場づくりをはじめ、開いてみたはいいものの、どうも狙った機能を果たさないと悩んでいる人も少なくありません。共有地とは、ただ場を解放していれば、それでよいのでしょうか。
この本が目指すのは、「私有財産なしで、機嫌よく生きてゆくための処方箋」。銭湯、シェアオフィス、道端の椅子。さまざまなものを思い浮かべながら読み進めていくと、「共有」という言葉の表面だけを見ていたことへの気づきとともに、芯を捉えた共有地のつくり方の一考が見えてきます。
共有のあり方について考えを深めたい方、あるいは地縁、家父長制、株式会社など日本の社会の土壌をつくってき歴史にふれたい方は、ぜひ手に取ってみてください。
書籍情報
タイトル:共有地をつくる わたしの「実践私有批判」
著者:平川克美
出版社:ミシマ社
発行年月:2022/2