イギリス出身のマシュー・ボイトンさんと、アメリカ出身のダニエル・ベラミーさん。ともに英会話講師として来日した2人は、趣味の自転車をきっかけに出会いました。コロナ禍の2020年、立川駅南口から徒歩6分ほどの場所にオープンした「坂道ブルイング」。フード持ち込み自由のタップルームを併設したマイクロブルワリーです。2人はなぜ、この地にビール醸造所を開いたのでしょう。
坂道ブルイングの名前の由来は、自転車好きの2人がツーリングで訪れた四国や九州の“坂道”。ボイトンさんは「開業も上り下りがあって、坂道みたいですね」と笑います。
英会話講師として働いていた2人は、とある自転車コミュニティで出会いました。日本各地をともに旅するうち、すっかり意気投合。ブルワリーをはじめるきっかけは、ボイトンさんが10年勤めた会社を退職し、修行の日々に乗り出したことでした。
「ビールが好きだったから、いつか自分でブルワリーを開いてみたかったんですね。静岡県の伊豆に、アメリカ出身のベアードさんが営んでいる『ベアードブルーイング』という有名なブルワリーがあります。そこのビールがすごく好きだったので、技術を教えてほしいとお願いして、2年半修行させてもらいました」
ビールづくりの基礎を身につけようと、醸造の仕事に没頭したボイトンさん。しかし、静岡で修行している間も家族は東京在住。離れ離れの生活でした。
「東京に戻って修行を続けたいと思って、福生市にある『石川酒造』へ連絡しました。160年続く日本酒の酒造ですが、明治時代からビールの醸造もしていることを知って。そこでは半年ほど、2019年まで働いていました」
一方、ベラミーさんは、出身地であるアメリカのワシントンから南米へ、約2年間の自転車旅へ。「こんな素晴らしい旅から帰ってきて会社員に戻るのは難しい」と感じていたベラミーさんと、「そろそろ独立しよう」と考えていたボイトンさんのタイミングが重なり、ビール好き、自転車好きの2人で醸造所を立ち上げようと決意しました。
準備期間は半年。ゼロからのスタートには、やり遂げなければならない課題が山積だったとボイトンさんは言います。
「一番苦しかったのは、融資を受けるためには酒造免許がいる、酒造免許を取るためには融資がいる、と言われたことでしたね。一体どうすればいいのかと思いながら、できることから一つずつ進めていきました。毎週、税務署や保健所に相談をしに行って、すごく勉強しました。もし外国人が日本語を勉強したかったら、醸造家になるといいですね(笑)」
融資と酒造免許の取得に加え、もうひとつ壁となったのが物件探しでした。
「外国人2人なので、なかなか信頼してもらえなかったり、伝わらないこともあって、難しかったですね。物件は醸造の機械を入れるために天井の高さが必要で、床が重さに耐えられるように絶対に1階。人通りのある道に面していて入りやすいことも条件でした。いくつも内見して、ようやく今の物件に出会えました」
立川は、ボイトンさんが住んでいた時期があったため馴染みがあり、当時はクラフトビールのブルワリーがなかったことから、最適な場所だと感じて即決。2019年11月、物件契約とともに会社も設立し、2020年1月から内装工事をスタートしました。日曜大工も未経験だった2人ですが、木材を買い求め、テーブルや棚をDIYで製作しました。
そして、2020年3月、ブルワリーの開設準備を進めながら、まずはタップルームとしての営業をはじめました。
タップルームは、ブルワリーが自分たちのビールをふるまうために設けるお店のこと。ビールサーバーの注ぎ口(タップ)がいくつか並び、カジュアルな雰囲気で飲食を楽しめる空間が一般的です。
坂道ブルイングにあるのは12タップ。ブルワリーが完成するまでの間も何か自分たちらしいビールを提供したいと考え、狛江市にある「和泉ブルワリー」にIPA(ビールの種類のひとつ。ホップが多くアルコール度数が高めなのが特徴)のオリジナルレシピを託し、製造を依頼。お店がある柴崎町になぞらえて、「柴崎セッション」と名付けました。さらに、2人が好きな日本全国のブルワリーから取り寄せた“ゲストビール”も6種類。フードはあえて用意せず、持ち込み自由のスタイルにしました。
「立川には美味しいごはんのお店がたくさんありますよね。テイクアウトして、好きな食べ物とビールを楽しんでもらえる。このまちとビールはすごく相性がいいと思います」
いざ開業してみると、2人の見込みが外れてしまったこともあったと言います。
「『これくらいのお客さんが来たら、これくらい飲むだろう』と販売計画を立てていましたが、実際はその半分くらいでしたね。僕たちは一軒で4杯とか5杯飲むのでその計算をしていたんですけど、ちょっと多かったみたい(笑)」
また、開業準備中にはじまったコロナ禍が長期化。外でお酒を飲むという習慣から人々が離れてしまいました。大きな痛手には違いありませんが、その状況が意外な交流を生んだと言います。
「来週から酒類提供は禁止と決まったときに、うちの冷蔵庫にあるビールをみんなで飲み尽くしちゃおうというイベントをしました。ビールのプレゼントもして、すごく盛り上がりましたね(笑) うちのお客さんはとてもやさしくて面白いと思います。イギリスのパブもそうですが、タップルームは地域の人のコミュニケーションの場になりますね」
タップルームの営業を続けながら、2022年12月、満を辞して併設したブルワリーが始動。翌1月に、「ファーストバッチ」、「ビッグチケットIPA」と名付けた2種類のオリジナルビールがデビューしました。麦芽の粉砕からビールが出来上がるまでは1ヶ月ほど。季節やイベントにあわせ、ボイトンさんがレシピを考えた新しいビールが続々と登場しています。
「お客さんの好みに合わせながら、暑い時期はライトな飲み口にしたり、湿度が上がってきたら柚子の香りを効かせたり、冬にはクリスマスにあわせてチョコレートやオレンジを入れてみたり…。立川にはクラフトビールを飲んだことがない人もまだまだ多いので、初心者向けの味わいを意識しています。醸造所の設備は楽器みたいですね。演奏する人によって音がまったく変わるように、同じレシピで同じようにつくっても、同じビールにはならない。それが難しくて、面白いところです」
開業当初は2人で接客などすべての業務を行っていましたが、ブルワリーが完成してからは、醸造はボイトンさん、タップルームでの接客と販売の営業はベラミーさんと分担しています。これからの目標は、より大きな醸造所をつくって、立川へ、さらに全国へとオリジナルビールを届けることだと言います。
「北立川にもう一店舗つくる構想があります。わたしたちはまちを代表する“ザ・立川ブルイング”になりたい。母国のイギリスやアメリカに比べると、今でも日本のブルワリーはまだ数が少ないと思います。醸造タンクを増やしたいし、ほかの機械も導入して、大きなブルワリーにしたいですね」
ベラミーさんの営業にも、ますます力が入っているそう。
「今も北海道から九州まで、わたしたちのECサイト経由でビールを買ってくれるお店がありますが、つくったビールの6〜7割はタップルームで飲まれています。醸造所を大きくして、卸しをもっとできるようにしたい。ECサイトやイベントでほかのブルワリーとのつながりをつくったり、SNSでメッセージを送って開拓したりをがんばっています」
「開業するとき、何が一番大切かと聞かれたら、僕たちにとっては友達です。ビールの醸造をしている友達、飲食店で働いている友達、会社を経営している友達、英会話学校のボスにも、たくさん質問しました。今友達じゃなくても、例えば好きなお店があるなら、忙しくなさそうなタイミングに声をかけてみるとか。わたしたちのところにももちろん相談して大丈夫です」
「クラフトビールの世界はやさしい」という2人。仕込みの日には、知り合いのブルワリーから助っ人が駆けつけることもあると言います。レシピ開発や醸造方法は仲のいいブルワリー間で共有され、決して秘密ではないそう。だからこそ、新しく醸造所を開く人が経験者に相談しやすく、ブルワリー同士のコラボレーションも盛んです。
8月には、お店のすぐ近くにある諏訪神社でお祭りが開催されます。コロナ禍での中止を経て、人が集まることを開業時から期待していたイベントが返ってきました。今年もお祭りにあわせた特別なビールをつくり、道にベンチを出して行き交う人を迎える予定です。
「『近くに住んでいても、今年ようやく気がついた』と来てくれるお客さんがまだ多いですね。多摩地域は自転車に乗ったりハイキングをしたりする人も多いですから、ご近所の人も立川を通りかかる人も、1日の最後に1杯のビールを飲みに来てもらえる場所になればと思います」
暮らすまちでつくられたクラフトビールを楽しみ、タップルームで地域の人がつながるカルチャーがこれからますます立川に育っていくことが楽しみです。
イギリス(ボイトンさん)、アメリカ(ベラミーさん)出身。ビール好きが高じて、2020年3月、立川市柴崎町に「坂道ブルイング」を開業。同月にタップルーム、2022年12月にブルワリーをオープン。立川を代表するブルワリーになることを目標に、オリジナルビールを醸造。美味しいと感じてもらえる最初の一口に辿り着くまでに必要なものは、「根気、技術(職人の技)、努力、こだわり」。