2019年3月、再開発がどんどん進むJR武蔵小金井駅の路地裏に一軒の天然酵母パン店がオープンしました。店主は、小金井市が地元の村上果優さん。3人の子どもを育てる母でもある村上さんは、もともと専業主婦だったと言います。「自分の子どもに安心で安全なパンを食べさせたい」。そんな親心から作り始めたパンが、いつしか地元の人たちが注目するパンへ。ひたむきに、天然酵母パンと向き合うことで生まれたはたらき方についてお伺いしました。
店名のびおりーのは、イタリア語でバイオリンを意味します。幼少期からバイオリンを学んでいた村上さんの日常には、常に豊かな音楽がありました。自らが手がける天然酵母パンも音色のように人を癒し、穏やかな気持ちになる存在であってほしい。「昔から研究が好き」と語る村上さんの人となりと想いが表れているのは、店名だけでなく販売するパンや接客、お店作りなど、至るところに反映されていました。
「おしゃべりは好きですけど、自分のことを言葉にするのが苦手でして…子どもの頃は音楽で、今だとパンで表現している感じ。私が話をするよりも、パンを食べていただくほうがわかると思います!」と、店頭から持ってきてくれたのは、お店の人気商品であるカンパーニュとあんぱん。早速いただいてみると、ずっしりと食べ応えがありながら、最後のひと口まで飽きることなく、それ一個でごちそう感があり、シンプルながらホッと和む味わい。そのほか、店頭に並んでいたのは食パンやチャパタなど8種類ほど。「本当は、研究に研究を重ねて完成させたパンをもっとたくさん並べたいんですけど、失敗することも多くて」。バターやジャムはつけず、パン一個で主食になる、食事に合うような天然酵母パンを目指し現在も調査と試作を繰り返す日々。
“愛と癒しのお店”をテーマに、テイクアウトはもちろん店内の一角にはカフェスペースを設け、店舗運営についても研究中とのこと。ゆくゆくは、このスペースを生かしてパン教室やイベントの開催も考えているのだとか。オープンして1ヶ月、すでに常連さんやご近所の人が入れ替わり立ち替わり訪れ、村上さんとの会話も楽しんでいるのが印象的です。
村上さんの学歴や職歴、さらにはプライベートに関してもパン作りにまつわるものがひとつも見当たりません。飲食店勤務の経験はありますが、キッチンではなくホール。結婚を機に専業主婦となり、起業や経営とは無縁の生活を送っていた村上さん。しかし、“パン屋を開くこと”が宿命だったかのようにいくつもの転機を迎えます。
「お店を開きたい、なんて考えは持っていませんでした。パンを作り始めたのは、子どもが生まれてから。マクロビオティックの家庭で育ったということもあり、子どもには体にいいものを食べてもらいたいなーと思って、ふら〜っと本屋に行き、何となくパンのレシピ本を買って帰ったんです。ただ、作ってみるとピンとくるものがあって。シンプルで簡単なレシピだったので、子育ての合間に定期的に焼くようになりましたね」
研究気質の村上さんにとって、湿度や温度、こね具合など、ほんの少しの違いで仕上がりの違うパンが出来上がることが何より面白く夢中にさせられた、とまるで子どものように目をキラキラと輝かせます。作る度にどんどんパンに魅せられ、探究心に誘われるまま、いつしか独自のレシピや工程にも挑戦するようになっていたそうです。
家族以外にパンをふるまったり、レシピをレクチャーしたりするようになったのは、ママたちがグループになって子どもたちの面倒を見る自主保育に参加するようになってから。
「一週間に一度、児童館で子どもたちを遊ばせながら、保護者もやりたいことをやるという活動に参加していて、その時の会話の流れで『パンを作ってみたい』、『レシピを教えてほしい』というリクエストを受けたんです。子育てをしながら作れるパンをテーマにバター、卵、砂糖を使わない、こねる時間が短く、簡単に焼けるパンの作り方を伝授していました」
レシピを学んだママ友たちからは、「実際に家でも焼いてみた」、「美味しく焼けた」という声が思った以上に届いて嬉しかった、と当時を振り返ります。それは、子育て中心の生活を送る村上さんにとってやり甲斐と楽しさを見出し、自分自身に自信が持てた瞬間でもありました。
その後、村上さんは自宅でパン教室を開くことを決めるのですが、「講師としての資格や実績を持っていないので、周囲は『ん!? なんか変なことやり始めたぞ』って思っていたと思います。3人の娘もまだ小さかったので、頻繁に行なっていたわけではないのですが…」と苦笑い。しかし、村上さんの思いとは裏腹に口コミが評判を呼び、公民館で行なっているパン教室の講師の依頼が舞い込んできます。家族からママ友、地域の人たちへ。やれる範囲で少しずつ積み上げた実績が実を結び、活躍するフィールドがどんどん広がっていったのです。
子育てをしながら講師としてはたらく。もともと目指していたわけではなく、今後の目標についてもとくに考えていなかった村上さんに、最愛の父の死が告げられます。「身近な人の死を目の当たりにして、自分がいつどうなるかはわからないな、と。父が亡くなった後ですが、やりきった人生を送っていたということを知りました。もし明日、自分が死んでしまったとしても『やりきった!』と思える人生を送りたいと思ったんです」と、どうやって生きていくか、そしてはたらき方について考えるようになり、行き着いた先がパンの販売でした。
起業はもちろん、経営面の経験もなかった村上さんが最初に始めたのは、シェアキッチンの利用です。「8人でキッチンを共有し、作った商品を対面販売できる8K(ハチケー)というシェアキッチンがオープンし、募集をかけているところにタイミングよく入ることができて。ただ自宅から少し遠く、道具を買ったり、試作をしたり、自分のペースで準備を進めていたのでお店を開けることがなかなかできなかったんですよね。営業したとしても月に1〜2度。売上げもほとんどなく小金程度でした。そんな中、友人が小金井市でシェアキッチンを始めることになり、そこのメンバーに誘われて。自宅から近くなるので、拠点を変えることにしました」と、天然酵母パンを製造・販売するために試行錯誤する期間が数年続いたそう。
シェアキッチンでパン屋を営む。このスタイルの課題点が、どんどん明確になっていったと話す村上さんは大きな決断を下します。「私が作るパンは、誰かとキッチンをシェアして作るのは難しかったんです。ほかの菌が混ざってしまうとダメになってしまうのと、あらゆる“もの”と“こと”をシェアするのは手間と時間がそれなりにかかってしまう。限られた時間と快適な場所ですべてを行うとなると、やっぱり自分のお店を持つという選択肢しかない、と思いました」。村上さんは、「人生やりきった!」と心から思える場所で新しい一歩を踏み出すことにしたのです。
新しい工房でのパン作り、一日に売れるパンの数量、天気で変動する来客数など、店舗運営の傾向や流れなど、わかってきたこともあれば、まだまだこれからということもたくさん。店頭でのイベントや出店販売など、やりたいことも多くあるという村上さん。その中のひとつに「何かを始めてみたいと思っているお母さんたちの力になりたい」と、これからのことを教えてくれました。
「実は私、音楽の教員免許を持っているんです。若い頃から、人に何かを教えるしごとがしたいと思っていたのと、『もしパン屋じゃなかったら』と考えた時に人を育てるしごとがしたいなって。私の人生は、結婚、出産、離婚など、あちこちぶつかりながら得てきたもの、失ってきたものがあり、ただの一専業主婦からここまできているので」と。素敵な才能や技術を持っているのに、気がついていない、影に隠れてしまっているお母さんたちが、子育てをしているうちに自信がなくなっていく姿を目の当たりにする機会が多く、そういうお母さんたちの小さな芽を開花させていきたいと考えているそう。
「自分のことをもっと好きになってもらえたらいいな。やっぱり、自身のことを好きじゃないと行動も発信もできないですからね!」という強い言葉もしっかりと実践しています。開業するにあたり、インテリアコーディネーターの友人にしごとを発注し、お店のロゴの制作、店頭ではたらくスタッフもママ友にお願いしているそう。自分で担えるしごともあえて人に依頼する。そうすることで生まれるしごとに楽しさとやりがいを感じている村上さんは、パンの研究に加え、女性がのびのびとはたらける環境をコツコツと築き上げているところです。
何かを始めたい人、今のはたらき方にモヤモヤしている人、自分に適しているしごとを見つけられずにいる人など、悩める人たちが気兼ねなく集まる場所、びおりーのにぜひ一度、足を運んでみてください。(新居)
天然酵母パンびおりーの代表。2019年3月より、JR武蔵小金井駅南口にある昔ながらの商店街・蛇の目通りにカフェスペースと工房を併設するパン店をオープン。独自のレシピと手法で、ほかにはない天然酵母パンを製造・販売。中学1年生、小学4年生と1年生の娘を育てる母でもある。
https://violinopanetteria.shopinfo.jp/