とある民家の庭先で、竹垣の入れ替え作業をしているのは、鳶(とび)の東博之さん。20代前半で弟子入りし、鳶技能士の国家資格を取得。自らの屋号「鳶東」を掲げて独立しました。33年続けてきた鳶の現場は、いつも地域の中。お得意さんからは、親しみを込めて「頭(かしら)」と呼ばれます。東さんの仕事との向き合い方を聞きました。
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武蔵野市在住の東さんが仕事を引き受ける場所は、ほとんどがご近所。マンション建設の応援など、まれに手伝いで遠方の現場へ行くことはあるものの、自宅からすぐ行けるくらいの距離感が基本です。作業をしていると、通りかかった知人から、「頭、暇だったら後でうちも来て」と声をかけられることもあるそう。鳶と聞くと足場の上で行う高所作業のイメージがありますが、建設現場以外では、庭の灯籠を整えたり、植木の手入れをするなど、幅広い作業を引き受けます。
「今日伺っているお家の方とは、娘同士が中学・高校の同級生で、もともとお知り合いでした。仕事に来る度に労いのお茶や食事を出していただいて、『東さんはもう家族ですよ』なんて声をかけていただきます」
東さんが鳶の世界に入ったのは20歳のころ。地元のお祭りで鳶の頭(かしら)と知り合ったことがはじまりでした。
「仕事もそうですが、特に習い事に関しては厳しい頭でした。鳶って、伝統芸能を習うんです。消防の出初式でよく見られる『梯子乗り』や『まとい振り』、作業のときに歌う民謡『木遣(きやり)』とかですね。鳶をはじめたら歌をすることになるなんて、想像もしていませんでした(笑)」
さらに、鳶技能士という国家資格も必須。例えばブロックの耐久性のような建築の基礎を学び、作業時に守るべきルールを身につけます。東さんは20代半ばで取得しました。
「仕組みがわかってないと直せないし、壊せない。それに加えて、鳶は庭仕事など覚えることがたくさん。実はお正月が繁忙期で、神社や出入りしているお家から注文を受けてお正月飾りをつくっています」
一番好きな現場は、自身が鳶と出会うきっかけにもなったお祭りだと言います。
「丸太で小屋を組んだり、盆踊りのやぐらをつくったり、提灯を吊り下げたり…。子どもたちが『何か手伝いたい』と言って駆け寄ってきます。和気あいあいとしていて、すごく楽しい。お祭りに来る方にも『鳶さんが取りまとめて、みんなで準備しているんだよ』と知ってもらえたらうれしいですね」
鳶は工務店などに勤務し続ける人も多く、誰もが独立を目指すわけではないそう。東さんはどのようなタイミングで「鳶東」を立ち上げたのでしょうか。
「お世話になっていた頭が、道具類を保管していた吉祥寺の『置き場』を整理するということで、それを貰い受けたのがスタートです。倉庫を借りて、自分の置き場を持ちました。独立できた一番の理由は、地域に知り合いが増えて、直接仕事を頼まれるようになったことだと思います」
鳶の仕事を続けてきた30年の間に、丸太は鉄パイプへ、紐はナイロン系へと資材の主流が移り変わり、機械の導入も進行。マンションが増えたことなどによって、家や庭の数は減少しています。
「人手的にも変わってきていて、鳶の仕事をしたいという若い子が今はほとんどいません。昔は鳶が担っていた仕事も、足場を組むのは足場屋さん、石を扱うのは石屋さんと業種が細かく分かれていったことで、分散しているのかもしれません。そういう状況もあってか、昔のような恐い頭はいなくなりましたね(笑)」
もうすぐ20歳になる東さんの次女は、高校卒業を機に一緒に現場へ出て仕事をするようになったそう。娘を含め、鳶を仕事にする人へ、特に伝えたいことがあると言います。
「面倒くさがらないことですね。妥協しないで、まあいいかなと思ったところから、もう一歩やる。かつて頭からは『人の家と思うな、自分の家と思え』と言われてきたし、仕事をいただくのが近所ばかりなので、手を抜いてはできません」
コロナ禍でお祭りの中止が相次ぐ中でも、神社からの仕事の依頼は途絶えることなく入っていたそう。「『鳶さん鳶さん』って一番最初に声をかけてくださるので、本当にありがたかった」と東さん。建物や庭のことで困ったら真っ先に相談できる“鳶さん”は、今日もどこかでまちの風景を整えています。
井口とび商店、株式会社古谷工務店を経て、2010年に鳶東を開業。1級とび技能士。一般社団法人関東鳶工業連合会理事、東都鳶工業連合会常任理事、北多摩鳶工業会1句1番組組頭などを務める。組頭として、若い組合員の技術指導、育成にも精力的に取り組んでいる。