三鷹駅から歩くと15分ほど、三谷(さんや)通り商店街にある「ヘアーサロンヨコヤマ」。都外に引っ越してからも毎月通ってくるお客さんがいるという、愛され続ける理容室です。1973年から店に立つのが、3代目の横山育三さん。70歳を迎えた今、横山さんは「できるところまで働きたいんだ」と語ります。その胸の内にある思いとは。
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終戦からまだ数年、1948年に開業した「ヘアーサロンヨコヤマ」。今のようにあちこちに理容室がなかった時代、お店をはじめたのは横山育三さんの祖母でした。
「戦後、焼き出されて三鷹駅北口のこの辺りに一家で引っ越してきた。中島飛行機の軍需工場があったから、危ないということで疎開した人が多くて、床屋の居抜きが貸しに出されてるのを聞きつけたみたいね。祖母は証券会社に勤めていたけど戦争で辞めて、床屋を開くための免許を活かして心機一転はじめたと聞いたよ」
時は流れ、祖母からの代替わりの際、「いい職人はいないか」とお婿さん探しをはじめた横山家。2代目として迎えたのが横山さんの父、友吉さんでした。
「道具屋(ハサミなどを扱う理容業界者)さんに相談して、紹介してもらったのがお父さん。8人きょうだいで、全員揃って床屋なんだよ。お父さんは長男じゃないから、床屋をするなら外に出なきゃならなかった。母は『好きになったのはお父さんだからね』と言うけどさ(笑)、話してるうちに仲良くなったんじゃないかな」
きょうだいたちは、腕を磨くためヘアーサロンヨコヤマに修行をしに来たそう。
「みんな、わたしの子守りをしながらここでインターンをするんだよ。お父さんのきょうだいに育ててもらったね。本当に頭上がらないよ」
「四谷生まれのお父さんは江戸っ子気質で、喋ってると喧嘩してるみたいだとよく言われたね。仕事場も同じだし、休みも連れ立って釣りに行って。妻に『毎日お父さんと一緒でいいわね』なんて小言をいわれるくらい仲が良かったね(笑)」
横山さんが3代目として後を継ぐのは、何の疑問もない自然な流れだったといいます。中学を卒業後、当時お茶の水にあった都立東京都理容学校へと進学しました。
「いわば生まれたときから、継ぐものだと思ってたから。お父さんもお店に来る人も、みんな楽しい人だったしね」
勤続50年の中で一番困ったのは、お父さんが亡くなったときでした。
「お父さんのお客さんを初めて担当することになって、『お前免許持ってんのか』なんて言われちゃったときはショックだったね…。うまくできるようになるまで、4、5年かかったかな。自信を持ってやると、お客さんに肌から伝わるんだよね。理容師ってそういう商売だと思うよ」
「若い頃は見た目がこわいお客さんにビビってたけど、今は『まぁまぁ任せて頂戴よ』と言える。60歳になった頃やっと、自分の技術もお客さんの気持ちも、お父さんの言ってたことも、全部わかるようになったと感じたんだよね」
「理容室って、1歳の子どもから100歳のおじいちゃんまで来る。障がいがある人もいるし、どんどん忘れっぽくなっていく人もいる。客商売ってこっちから話しちゃいけないんだよ。話を聞いて、好きな話題を投げかけたりさ。だって、『わかってくれてる』と思ってもらえなきゃ、駅前でもないお店になかなか通わないよね」
常連さんの中には、遠く都外へと引っ越してもなお、通い続けるお客さんがいるそう。
「『ほかとちょっと違うんだよな』なんて言いながら、毎月のように千葉や神奈川から車で来てくれるんだよ」
うれしそうに話す横山さんは、お客さんだけでなく、大勢の家族にも囲まれて働いています。
「娘が2人、孫が7人。近くに住んでるから、店にもよく来るよ。70歳になっても、孫たちに『じいじ!』と呼ばれたら『はいよ!』って答えたい。元気で働いてなきゃ言えないじゃん。動ける間はこの仕事をずっと続けたいね」
時代が変わってもお店に集う家族や常連さんたちのにぎやかな声と信頼が、横山さんが長く仕事を続けていく一番の原動力になっています。
JR三鷹駅から徒歩15分ほど、武蔵野市西久保の三谷通りにある「ヘアーサロンヨコヤマ」の3代目。都立東京都理容学校を卒業後、祖母、父の後を継ぎ、1973年から理容師として店に立つ。趣味は父とはじめた釣りで、店内にはルアーや釣り中の写真がたくさんあり、しばしばお客さんとの話題にも上がる。