世の中に出回っている大抵の本は、大量生産されているものです。けれど、一冊一冊一人一人のために、じっくりとゆっくりと丁寧に美しい本を仕立てる人がいます。
今回ご紹介する空想製本屋の店主・本間あずささんは、製本家として本と人とを繋ぐしごとをしています。たかが本されど本。一冊の本が、はたらきかたを、時には人生そのものを変えるバイタリティを持つということ。前編では、本間さんと手製本との出会い、製本家として生計を立てるまでの道のりについてです。
取材開始直後、すぐさま手渡されたのは、現在の活動内容が記載されたパンフレットと、過去に行われた個展やイベントなどのDMです。
「私のおこなっている手製本とは“製本工芸”と呼ばれる工芸のひとつで、商業出版の本とは全く別の分野として存在しています。工芸的な要素を取り入れて一冊ずつ本を作っていくのですがご存知でしたか…?」と本間さん。手持ちの資料を早々に広げてくれたのは、手製本の認知度の低さからでした。製本工芸のルーツを辿ってみると行き着く先は、日本ではなくヨーロッパ。版元製本が主だった日本で個人が自由に本を作るようになったのは、ここ数年のことです。
本間さん自身が、その存在を知ったのは、日本の装幀家、製本工芸家、エッセイストとして活動していた栃折久美子さんの著書「モロッコ革の本」から。「本は子供のころから好きでジャンル問わず、たくさん読んでいました。手製本について書かれた本を読んだのは、大学生の時です。すぐさま『やってみたい!』と思い、軽い興味心で体験教室に行ってみたら見事にハマって。当時は、学生で時間もあったので技法の違う工房3つくらいを掛け持ちで通っていました」。一冊の本との出会いが、その後の本間さんの人生に大きく影響していきます。
学業と並行し趣味で手製本の活動を続けていた本間さんは、「いつか製本家一本で生計を立てたい」と思うまでになっていました。当時は、個人で本を制作する事自体が今よりももっと一般的ではなかった時代。それでも、屋号を付け、個展を開いたり、受注しごとを受けたりしながらはたらき方を模索していきます。
月日は流れ大学卒業後、晴れて製本家デビュー…というわけではなく、児童書の編集者として会社員に。「就職してからも工房には引き続き通っていました。まったくしごとにはなっていませんでしたけど、空想製本屋としてもしごとを受けていましたよ」と当時を振り返り笑います。本業と個人の受注しごと、二足のわらじを履きながらの生活も3年目を迎えた頃、本間さんは思い立つように会社を退職します。「全時間を手製本のために使わなければ、本業にならない」と、手製本が伝承されている国のひとつ、スイスへの留学までも決断してしまうのです。「本業にする限り、手製本の技術はもちろん、視野をもっと広げておきたかったんです。本場の技法を間近で見て、聞いて、体験したい」。実際にスイス・アスコナにある製本学校で半年間みっちりと製本について学んだ本間さんは言います。「日本の工房で学んだこととは、全く違うものが見られたし、先生方の技術がとにかく素晴らしくて。世界各国で手製本をしごとにしている人たちにも出会えていい刺激になりました」。その時の体験と経験が、今のはたらきかたにもしっかり根付いているようです。
スイスから帰国した本間さんは、本格的に空想製本屋の店主として活動をスタートさせます。とはいえ、学生時代から行っていた受注しごとで生計を立てるのは非常に厳しい状況。手製本の認知度も需要もない中で重きを置いたのは、“手製本の存在を多くの人に知ってもらう”ということでした。
まずは、中野のマンションの一角に構えたアトリエで製本教室を開始。加えて、アトリエ以外の場所で月に一度、定期的にワークショップを開催することに。自分が持っているすべての時間を空想製本屋の活動にあてることで、一件また一件と受注しごとが増え、一人また一人と製本教室に通う生徒さんが増え、いつか想い描いていた製本家として、空想製本屋一本で生計が立てられるまでに成長していったのです。
後編では、リトルプレスMONONOME PRESS、また本間さんが考える手製本の今後についてご紹介します。(新居)
依頼者の想いを綴じる製本家
#1 手製本という自由な本作り
東京都武蔵野市を拠点に空想製本屋の店主として、オーダーメイド手製本、本の仕立て直し、製本教室を中心に活動。一冊一冊、一人一人のために制作している。手製本のリトルプレスMONONOME PRESSの企画・発行も行う。
空想製本屋
http://honno-aida.com/