「武蔵境でおいしいコーヒーが飲めたらな…」そんな自身の願望を実現させたのがNORIZ COFFEE(ノリズコーヒー)オーナーの田中宣彦さん。コーヒー店を始める前は、飲食業とは全く接点のない会社員として16年ほどはたらいていました。そして、スイーツづくりを担当する奥様の遥さんも、2019年3月まではフルタイムでバリバリ働く会社員でした。そんな二人が、多くの人に美味しさと安らぎを提供する人気店をどのようにつくり、支えあっているのか、お話を伺いました。
JR武蔵境駅北口から歩くこと5分、亜細亜大学通りを西に進むとコーヒーの香りが漂ってきます。そこがNORIZ COFFEEです。2016年7月のオープン以来、地元の人を中心にジワジワと評判が高まり、今や開店前から行列ができることもあるほどの人気コーヒー店。オーナーの田中宣彦さんと奥様の遥さんの二人が切り盛りしています。
NORIZ COFFEEの最大の特徴は、自家焙煎した豆をハンドドリップで1杯ずつ丁寧に淹れるスペシャリティコーヒー、味も見た目も歓声をあげたくなる手作りスイーツ、そして穏やかな時間を感じられる空間のハーモニーです。
しかし、オープン当初から今のようなスタイルだったわけではありません。飲食業とは全く接点のない会社員だった宣彦さんが一人で店を立ち上げ、試行錯誤しながら味やメニュー、接客など、少しずつ積み上げていきました。遥さんもオープンからこれまで、店への関わり方を幾度も悩み、考え、変えていったそうです。
「オープンから1、2年は本当に暇でしたよ」と笑う宣彦さん。今は、営業前後の時間、定休日をフル活用しても仕込みが間に合うかどうか、というほどの忙しさに変わり、それに伴って二人のはたらき方も大きく変化しています。
実は宣彦さん、以前からコーヒー店を開きたいと思っていたわけではありません。会社員としてはたらいていたころ、コーヒー好きではあったものの、特にこだわりは持っていませんでした。
30代半ばになって、ふと「このまま会社員としてはたらき続けるのだろうかーー」と考えたとき、好きなことを追求して、充実した毎日を過ごしたいという気持ちが急速に高まったそうです。職場でストレスを感じることも多かった宣彦さんは、コーヒー店で過ごす時間が気持ちのリセットにつながっていました。「僕も誰かかが安らげる空間や、人と人を結びつけるコミュニティの場をつくりたいなと思い、そのための入り口として、興味のあったコーヒーを選んだんです」と話してくれました。
そんな宣彦さんの想いを知った遥さんは、「やってみたら?」と優しく背中を押したそうです。遥さんの後押しも得て、宣彦さんは一気にコーヒー道へハンドルを切っていきます。しかし、このときはまだ、「いつか店を開ければ」という淡い夢を抱くだけで、遥さんも「まさか本気ではないだろう」と思っていたのです。
宣彦さんは、休日を利用してコーヒー店巡りを始めました。都内だけではなく近隣の県まで足を伸ばし、美味しいと評判の店は旅先でも訪問しました。味や雰囲気などを肌で感じていったのです。コーヒーを楽しむという趣味から、自分で焙煎する、コーヒーを淹れる、という工程まで興味を深めるのに時間はかかりませんでした。
「美味しいコーヒー屋さんに巡り会うと、オーナーさんに話を聞かせてもらいました。100軒、150軒と巡るうちに、オーナーさんたちとの触れ合いも増え、コーヒーの魅力に磨きがかかっていったんです」。焙煎の仕方を教えてくれる、というオーナーさんに出会ったときは、迷いなく申し込んだそうです。
コーヒーに傾倒していく宣彦さんの姿を遥さんはどのように見ていたのでしょうか。「いい趣味だなと思ってすごく応援していましたよ。でも、会社員の私たちにお店を開くなんてすごいことはできない、とも思っていたんです。身近な親族に自営業の人もいませんでしたし」。
一方の宣彦さんは、完全にコーヒーに心を奪われていました。「妻の本心には全く気付いていませんでしたね。オーナーさんたちと話すうちに、早く店を始めたい、という気持ちが高まっちゃって。いつかチャンスが来たらすぐに始められるよう、準備に余念がありませんでした」といいます。宣彦さんはコーヒーの勉強だけでなく、店舗経営ノウハウのセミナーなどにも積極的に参加し、着々と準備を進めていきました。
転機は突然やってきました。宣彦さんがコーヒー店巡りなどを始めて1年ほどが経ったころ、焙煎を教えてくれていたオーナーさんから、「いつ店を開くの?」と問われます。具体的な計画は全く立てていなかった宣彦さんですが、そのときの勢いで「来年中です」と答えてしまいます。
その勢いのまま、1件目の内見で気に入った物件に決め、会社も辞めた宣彦さんの行動に遥さんは動揺します。「内見して気が済むなら、という軽い気持ちで『見てきたら?』と勧めちゃったんですよね。それが、決めたっていうから、『まさか!』でした」と苦笑しながら当時を振り返ります。
それまでずっとコーヒーを追求する宣彦さんを応援してきた遥さんですが、初めてストップをかけました。すると、宣彦さんは「え?応援してくれていたんじゃないの??」――夢の実現が現実味を帯びてきたとき、初めて夫婦がお互いの本心を知ることになったのです。
遥さんは迷いました。宣彦さんからは、「一緒に店をやるのでも、会社員を続けるのでもどちらでも良い」と言われていました。店を開くことを想定していなかった遥さんは、会社を辞める決断がつきませんでした。
「私まで辞めてしまって大丈夫なのかな、という不安があって。私は会社員を続けながら、自分のできる範囲でお店に関わっていこうと決めたんです」という遥さんはこのとき、趣味のお菓子づくりを生かしてコーヒーに合うお菓子をつくる道を選びました。
会社員という比較的、安定しているしごとを辞め、未経験のコーヒー店経営に挑戦した宣彦さんに不安はなかったのでしょうか。
「なかったです。会社員も自営も、自分のアウトプットがサラリーや売り上げという形で評価されるわけですよね。だから、自営でもうまくいかなければその原因を探り、改善していけば大丈夫だと思っていました」。独立時期を決めていなかった宣彦さんでしたが、はたらくことへのブレない考えを持っていたからこそ、準備さえしていれば、いつでも始められるという自信があったのでしょう。
遥さんも、会社でのしごとの合間に店と関わるうちに、次第に店のことが気になって仕方がなくなっている自分に気付きます。「自分がつくったものを美味しいと食べてもらえるのは、やっぱり嬉しいですよね」とにっこり。その気持ちは徐々に高まり、オープンから1年ほど経つと、NORIZ COFFEEにしかないお菓子をつくりたいと考えるようになりました。
遥さんは、宣彦さんのコーヒーに合うスイーツとして、自身が好きなキャラメルはどうだろう?と思い付きます。そこで早速、店のエスプレッソを使ったキャラメルの試作を始めました。しかし、何度つくってみても、遥さんが思い描くキャラメルのようには固まりませんでした。「味は美味しいのに…」と悶々とする中、つくっては捨て、つくっては捨てを繰り返すうちに「もう諦めてしまおうかな」と弱気になったこともあったそうです。
そんなある日、固まらなかったキャラメルソースを、ふと、そのころからメニューに出していたロールケーキにかけてみました。すると、キャラメルソースのトロッとした流れ具合も、ほろ苦さとロールケーキの甘さとの相性も、なんだかとてもいい感じになったのです。「美味しいし、これまでに見たことのないビジュアルが面白いかもしれない!」と遥さんはこの偶然の組み合わせに興奮し、すぐにメニューとして出すことを決めます。
こうして誕生したエスプレッソキャラメルロールケーキは、インスタグラムを中心にSNSで拡がり、あっという間に人気メニューになりました。そして、遠方から店を訪れるお客さんもどんどん増えていったのです。それは、嬉しい悲鳴でした。宣彦さんは、「2つのものが偶然1つになったとき、そういう人たちの目に留まったというのは、僕としても発見でしたね」と当時を振り返ります。
このとき、遥さんはまだ会社員としてフルタイムではたらいていたので、会社から帰った後の時間や土日にしかお菓子をつくれませんでした。「お客様からの反応が増えるにつれ、量もつくらなければならなくなり…。やりたい気持ちと体力的な限界との葛藤がすごくあり、彼とも随分衝突をしました」と話します。
店が急成長を遂げようとしているとき、内部の体制が追いつかないケースはしばしばあります。宣彦さん、遥さんはどのように乗り越えたのでしょうか。
「求められる現実がどんどん目の前に迫ってくる状況の中で、妻と話し合って解決する時間も余裕もありませんでした。ロールケーキをやめるという選択肢はあったのですが…」と宣彦さんがいうと、「それは悔しかったんです。せっかくお客様が認知してくださったのに、このチャンスを手放したらもう掴めないかも、と思って」という遥さん。いつの間にか遥さんも店を動かすことに前のめりになっていたようです。
苦しい思いを抱えていた遥さんは2018年の秋、会社を辞める決意をします。「そのときはもう迷いなく決められて、ホッとした気持ちだったことを覚えています」。その決断に宣彦さんは一切口を挟みませんでした。「たとえ今、店を離れて別のしごとをやると聞いても反対はしません。能動的に動いた方が、得られた結果に対して納得いくと思うからです」と淡々としています。
遥さんは2019年3月末に退職、4月から武蔵境にあるシェアキッチン8Kを借り、本格的なスイーツづくりを稼働させました。宣彦さんはオープン当初からのスタンスで、NORIZ COFFEEならではの味を常に探求し、店を訪れる人同士でも繋がりが生まれるようなコミュニティの場づくりを模索しています。
「どんな店になるといいかは僕も妻も同じ考えなので、その上で二人のチャレンジしたいことが違っていてもいいと思っています」と宣彦さんがいうと、遥さんも「そうですね。まずは二人で店をやる意味を考え、そのあとは自分の気持ちに委ねて、いろいろな可能性を持っていてもいいのかな、と今は思っています」と話してくれました。
揺るぎない考えと行動力でタイミングを引き寄せる宣彦さんと、予想外の展開でも自身の力を最大限に引き出そうとする遥さんの組み合わせは、ビジネスパートナーとして強い力を持っています。二人が目指すビジョンに向けて、これからまたどんな展開が待っているのか、楽しみで仕方ありません。(大垣)
NORIZ COFFEEのオーナー。16年の会社員生活を経て2016年7月、JR武蔵境駅北口から徒歩5分の場所にコーヒー店をオープン。「a good time with good coffee ーコーヒーで繋ぐ、時間と輪ー」 をコンセプトした店では、心地良い空間、独自の味を表現したスペシャリティコーヒー、手作りスイーツを提供している。
趣味のお菓子づくりの腕を生かし、2016年7月から2019年3月までは、会社員生活の傍らNORIZ COFFEEのスイーツづくりを担当。2019年4月からオーナーの宣彦さんとともに店全般の運営に関わる一方で、武蔵境にあるシェアキッチン8Kを借り、本格的なスイーツづくりを稼働させる。