細い路地に小さな店が立ち並ぶ、吉祥寺駅北口のハーモニカ横丁。その一角に、赤飯と餅菓子の店「いせ桜」はあります。団子や饅頭、大福などの商品をつくっているのは、4代目の市村成二さん。どんな経験をされてきたのでしょう。
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吉祥寺の人気店「いせ桜」の4代目で、和菓子職人歴52年となる市村さん。毎日、武蔵野市内の小さな工場で、二人の息子さんと一緒に餅や和菓子をつくっています。一つひとつ手仕事の和菓子の世界。どんな経緯で和菓子職人になったのでしょう。
「私は手先が不器用で、和菓子をつくる気は全然なかった。もともと、車のセールスをやりたくて日産自動車で整備士をしてたんです。義理の両親に『忙しいから手伝って』と言われ、和菓子づくりをはじめることになって」
こうして全くの初心者から、義父母が営むいせ桜の工場で働くことに。3代目だった義父は、職人肌で寡黙で頑固。具体的にこうしろと教えてくれることはなく、その背中をじっと見ながら、餅のつくり方や饅頭の包み方など、一から技術を身につけていきました。
「人間って、続ければ慣れてくるものなんですよ。最初は饅頭を包むのも難しくて、自分には向いてないと思ってたけど、2・3年経ったら『できなくもないかな』って思えてきた。自分がつくった和菓子を食べたいと買いに来るお客さんの姿を見たら、この仕事も悪くないかと。義父母に『素質あるぞ』って乗せられてズルズルきちゃった(笑)」
市村さんの仕事は、朝が正念場。11時の開店に間に合うように、二人の息子さんと一緒に早朝から商品をつくります。餅米を蒸して餅をつき、大福をつくり、饅頭、団子を蒸して、お店へ。午後からは、注文を受けた誕生餅や鳥の子餅、冷凍保存しておく饅頭や団子などを製造しています。
おいしいものを提供したいと、市村さんが長年大切にしてきたのは、素材選びでした。
「良い腕があっても、良い素材がなければうまいものは絶対できない。だから、これ以上いいものはないっていう素材を使っています。保存料などの添加物は使わず、いい小豆を使って餡子も手づくりする。お米も何十年もお付き合いあるお米屋さんから仕入れて、粘りや味がちょっとでも違うと別のものに変えてもらってね」
みたらし団子の中に餡子が入った特製団子は、大人気の和菓子。市村さんのアイデアを起点に約25年前に生まれました。
「だんご三兄弟の曲が流行った頃に、他の店にないちょっと変わった団子をつくりたいなと団子に餡子を入れたら、テレビでも取材されて大ヒット。義父には絶対売れないと言われてたけどね(笑)」
5年前に飲食店を直撃したコロナ禍は、市村さんにも大きな影響がありました。
「老人会の誕生会や、卒業や入学などで出される紅白饅頭や赤飯のご注文がパタンとなくなって。正月でも吉祥寺に全然人がいない。ここまでくるかと思いました。そんな中、地元の成蹊高等学校の学生さんたちが『文化祭でお団子つくってください』とうちに頼みにきたんです。『少しでも商店の力になりたい』って」
それを機に、今も文化祭のお団子づくりが続いているとか。地域のつながりに支えられながら、お店の客足も少しずつ戻っていきました。
今、市村さんは72歳。体力的にやめたいと感じることも多いと言います。それでも毎日仕事を続ける理由はどこにあるのでしょう。
「義父母が続けられなくなった時、『大変だからやめろ』と私に言ったんです。経営的に考えると、和菓子は単価も低いし埒が明かない。やめようかなとも思ったけど、今更他に何をしよう?と。長年注文いただいているお客さんにはやめたら困るって言われるし、美味しいと喜んでもらえるならと。今も遠くから買いに来てくれる人もいるし、若い人も来てくれて嬉しいですね。無理はできないですけど、体が動くまでは続けようと思ってます」
吉祥寺の和菓子屋「いせ桜」の4代目。日産自動車の整備士を経て、1971年からいせ桜に勤務。3代目の義父の技術を受け継ぎ、和菓子製造工になる。今も現役で活躍中。