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[となりのお宅訪問]9坪の家から、9坪の宿へ

三鷹の住宅街の中にひっそりと建つ小さな家。原型は、建築家・増沢洵さんが1952年に建てた建坪9坪の「最小限住居」。正方形の大きな窓からは、家の中がすっかり見渡せます。ここに暮らしたのは一家4人の萩原家。時が流れ、家としての役目を終えたこの家は、2020年、「日常を旅する宿」として生まれ変わりました。家から宿へ。何を変え、何を変えずに今があるのでしょうか。運営と管理を行う次女の葵さんにお話を聞きました。

姉妹の名前をつけた“子育て”の家

両親と姉、猫2匹とともに、7歳から20年間をこの家で過ごした葵さん。増沢洵さんと言えば、昭和を代表する建築家。完成前から注目は大きく、開かれた家をつくろうとした両親の考えも手伝って、常に人が集まる家だったと言います。
 
「年に1回はオープンハウスをしていて、ギャラリーのように展示をしたり、庭を使ってものづくりのワークショップをしてみたり。多いときでは300人くらい来たんじゃないかな。イベントのときでなくても日頃から知り合いが集まってきて、1階やウッドデッキでは大人たちがいつも楽しそうにしていました」
 
最小限住居は、もともと増沢さんが自邸として設計した家。戦後、まだ資材が充分でない時代に、コンパクトながら開放感のある空間を求めて設計されました。
あるとき、新宿にある「リビングデザインセンターOZONE」で最小限住居の原寸大の軸組を再現した展示会がありました。その企画担当をしたのが、OZONEに勤めていた葵さんの父、萩原修さんだったのです。
 
「美しさに惚れ込んだのでしょうね。家を建てる予定なんてなかったのに、『展示後に軸組を破棄してしまうのはもったいない』と、自分たちの家にすることを決めて。急いで土地探しをして、職場からも近く、環境も気に入った三鷹のこの場所に巡り合ったと聞いています」
 
一家の住まいとするにあたって、国立を拠点に活躍する家具デザイナーの小泉誠さんにリデザインを依頼。1999年に完成した家は、当時小学生だった姉妹の名前を取って、「スミレアオイハウス」と名付けられました。

「宿にすることを決めて家族で掃除していたとき、段々と、自分の家だけど自分の家じゃなくなっていく不思議な感覚になりました」と葵さん

現代の暮らしに合わせてリデザインされたスミレアオイハウスは話題を呼び、その後、狭小住宅のプロデュースを手掛ける会社「boohoowoo」などによって、住まい手の趣向に沿ってさまざまにカスタマイズされた「9坪ハウス」が全国各地に誕生します。
 
「子どもの頃から雑誌やテレビの取材が家に来ていて、そうやって人目に晒されるのも、オープンハウスで大勢の人がいるのも、思春期はちょっと嫌でした。狭いですし2階も吹き抜けなので、逃げ場がなかったんですよね。トランプ大会がはじまると誰も帰らなくなったりとか(笑) でも、今思うと、わたしが人好きになる土壌はあの頃につくられたんだろうなと思います。たくさんの人が遊びに来て、誰かと出会っている風景がわたしの日常でした」
 
姉妹が成長して大人になり、家族の形が変わってゆく中で、その愛着ある家の行く末を考えるときがやって来ました。

「この家、どうしよう」

「建てたときには、『築20年くらいで寿命だろう』と考えていたと父が言っていました。21年目に入った2019年には、確かにあちこち老朽化してきていて、そのまま住み続けるには手を入れなくてはいけない状態。これからの使い方どうしようか、売ったり貸したりしようかと、家族で話し合いをはじめました」
 
宿は、そのときに出た案のひとつ。「どうやらそれが家にとって一番良さそうだ」。建築的な価値があり、人が集う場として存在してきた家だからこそ、宿として残すことを決めたのは自然な流れでした。
宿として運営しはじめた当時、日野駅近くで、“地図と写真とお酒とおつまみ”をテーマにした集会所「マルヒノ」を経営していた葵さん。コロナ禍によって先の見えない長期休業を余儀なくされていた中、思案の末、店を畳んで宿の運営に専念することを決断しました。
 
スミレアオイハウスは住宅地に建つ家のため、宿にするならば、民泊の形を取る必要があります。宿泊事業をしている知人に教えを乞いながら、民泊運営の届け出や家の整備を進めました。
開業の3ヶ月ほど前にはクラウドファンディングを実施。かつてオープンハウスに集った懐かしい人たちをはじめ、目標金額を上回る240万円の応援が集まりました。
 
そして、2020年夏、Airbnbのサービスを利用して「9坪の宿 スミレアオイハウス」がオープン。コロナ禍ではありましたが、都内在住の人をはじめ次々と予約が入りました。


1階
家から宿へと役割を新たにするにあたって、間取りを変えるような大きな変更はしていないそう。“日常を旅する”というコンセプトがあるからこそ、家の雰囲気はあえて残し、手を入れるのはコンロ・オーブンの取り替えやエアコンの増設など、整備やマイナーチェンジだけに留めています。
 
ウッドデッキに続く1階は、家族が囲んだ丸テーブルをそのままに。椅子は張り替えて目新しく。年季の入った床板に20年の歴史を感じます。

宿泊客は、家を建てようとしている人、建築が好きな人、三鷹の森ジブリ美術館など近隣を観光する人などが多いそう

食器は家族で使っていたものをそのまま残し、足りないものだけ買い足した

キッチンの奥にある水回りスペース。浴室の壁は木だったが、傷みが激しかったため張り替え。床にはすのこを置いた

かつて家族が川の字で寝ていた和室は、階段側にあった襖を木の建具に変更。法律に則って火災報知器を設置

2階
吹き抜けがある2階の広さは6坪。ベッドを置くアイデアもあったものの、「泊まる人が使い方を決められる方がいい」と考えて、1階の和室にふとん、2階に折りたたみマットレスを用意することに。
家族で暮らしていた頃は、間仕切りをつくって姉妹で1坪ずつの半プライベートスペースを設けていたそう。今ではすべて取り払い、机と椅子だけを残して空間を自由に使えるようにしています。

天井が三角形になっているため、家に入ると、イメージするよりもさらに開放感が強い

小窓の真上にある戸棚の中には、実はエアコンが隠されている。宿泊客に貸し出す備品はクローゼットに収納

家の向かいはビニールハウス。人の目は少なく、障子を閉めてしまえばまったく気にならない。上段の窓と障子の開閉は梁の上を綱渡りのように歩く必要があるが、あまりにスリリングで元住民の葵さんたちにしか成せぬ技

何でもないまちへ旅に出る

「最近まで忘れていたんですけど、昔、ホテルのフロントの人になりたいと思っていたんです。ふと、『あれ、わたししてるな』と思い出して。もてなしたり、世話を焼くことが好きなんです」
 
『日常を旅する』、という多摩地域のガイドブックがあります。2015年に亡くなった母、萩原百合さんがつくった最後の本。日常を過ごす中で気になった場所を訪ね、発見した魅力や思いをまとめた一冊です。
その思いを受け継ぐように、今は鳥取県に暮らし、フリーでイラストとデザインの仕事をしている姉の菫さんと一緒に「日常を旅するmap」を宿泊客に向けて制作。2人の行きつけのお店や好きな場所が書き込まれています。
 
「例えばほかにも宿があれば、駅前に鍵を受け渡す場所をつくって、ゲストハウスのラウンジのような交流拠点にできたらいいなと思い描いています。公園があったり、面白いお店があったり、そういう多摩地域の日常の暮らしを体験してもらえたら」
 
一軒家の宿という自由さや雰囲気を活かして、宿泊しながら食器や家具を使った後に、気に入ったらECサイトから購入できるような仕組みもつくりたいと、ずっと考えているのだそう。
日常を楽しむ宿に、これからどんな人たちが集まるのか楽しみです。

宿としてオープンする際、目印としてバス停のようなデザインの看板を立てた

プロフィール

萩原 葵

1992年、国分寺市生まれ。小学校1年生のときから現在まで、20年間スミレアオイハウスで暮らす。明星学園小学校、東京大学教育学部附属中等教育学校を経て、武蔵野美術大学基礎デザイン学科に入学。卒業後は同学科研究室、デザイン事務所、飲食店、スナック等で勤務しながら、人と話すことが好きだと気づき、2017年に立ち飲みバー「マルヒノ」をオープン。運営と並行してデザイン、イラスト、執筆による活動も行う。

9坪の宿 スミレアオイハウス
https://sahouse.net/