ブルワリーをまちの社交場にする

2023.05.19
ブルワリーをまちの社交場にする

稲城周辺の創業者にフォーカスした連載第4弾。今回訪ねたのは、稲城市・稲田堤エリア唯一のクラフトビール店「稲田堤麦酒醸造所」です。ここは鍼灸整骨院を営むオーナー石原健司さんが開店したマイクロブルワリー(小さな規模で生産するビール醸造所)。鍼灸整骨院がブルワリーを経営?それもコロナ禍に?しかし石原さんの思いは驚く人たちを飲み込み、溶かすほどのものでした。
2023年2月に通称「イナバク」がオープンするまで準備に2年以上。それほど長い時間をかけて歩んできました。紆余曲折の中、揺れながらも疾走した過程や、ブルワリーを通して貢献したいまちの未来について心のうちを話していただきました。

デイサービスからクラフトビールへ

東京都と神奈川県の県境に位置する稲田堤エリア。その中央には、旧来から人の往来が盛んである府中街道が走ります。幹線道路沿いには、旧来の店舗に混じりぽつりぽつりと新店の顔ぶれも見える一角に、「稲田堤麦酒醸造所」は店を構えます。ここはエリア初のマイクロブルワリーです。

稲麦の文字と河童のイラストが印象的なブルワリー外観
稲麦の文字と河童のイラストが印象的なブルワリー外観

実はここ、元々オーナーの石原さんが営む、鍼灸整骨院併設のカラオケデイサービスでした。

「鍼灸整骨院で治療をする高齢の患者さんたちが、リハビリのひとつとして“カラオケを楽しみたい”と。たくさんのリクエストを受けて、2018年にこの場所を開いたんです。交流すること、歌うことで患者さんが元気になることが嬉しくて。毎日のように利用してもらっていました」

ところが20年1月のこと。社会を一変させるコロナウイルス感染症の波が襲ってきます。当時を振り返りながら石原さんはこう話します。

「当時は皆、会話や咳などからウイルスが飛沫することに恐れをなしていましたよね。もちろん、カラオケなんかしている場合じゃなくなった。緊急事態宣言もあり、この場所は休止することに。コロナ禍もいつ収束するかわからない状況で、スペースを続けることが難しく、閉めることになったんです」

ずっと整骨院にまつわる仕事で生きていく。そう思っていたはずの石原さん。「この場所で何かできないだろうか」と頭の中であらゆる考えを巡らせてたどり着いたのが、クラフトビールでした。

「鍼灸やカラオケデイサービスなど“サービス”を提供することも好きだったんです。でも、“ものづくり”にも携わりたかったんですよね。何か形に残る“地域貢献”をしたいという思いを持っていたのだと気づきました」

コロナ禍でのさまざまな紆余曲折を思い出しながら話してくれた石原さん
コロナ禍でのさまざまな紆余曲折を思い出しながら話してくれた石原さん

しかし時はコロナ禍真っ盛り。もちろん飲食店にも風当たりの厳しい時期です。カラオケデイサービスから飲食店への変化とは、自ら茨の道を歩むことを選んでいるように見えます。

「厳しい時期なのは十分わかっていたんです。でも、厳しいからこその“今”とも思ったんですよね。だって食べることや飲むことは、人々の営みから消えることはないじゃないですか。コロナ禍がいつか過ぎた時にこの場所が続き発展してくれればそれでいいと思ったんです。そして多くの人が飲み食いしながらつながり広がっていく場所になる姿が浮かんだんです」

決めたらすぐに修行へと出る

決意をした石原さんは、21年4月をもって、カラオケデイサービスを閉所します。その後、20年以上の付き合いになる学生時代の先輩である勝亦宏樹さんを誘い、クラフトビール修行の旅へ出るのです。

「長い付き合いである勝亦さんは、僕が“クラフトビール作りをやりたい”と言ったら一緒にやると決意してくれたんです。その時彼は別の仕事をしていたので、互いに本業を抱えながらのダブルワークでした」

まずはクラフトビール作りの基礎を学ぶために、二人はクラフトビール事業を展開するライナ株式会社のブルワリーに修行しにいきます。朝から晩までビールの海であくせく泳ぎ、仕込みに明け暮れる二人。仕込みや洗浄、醸造などクラフトビール作りのイロハをみっちり3ヶ月間学びます。

一面ガラス張りのブルワリーは、通る人の目を引く。立ち止まっては覗き込む人もちらほらと
一面ガラス張りのブルワリーは、通る人の目を引く。立ち止まっては覗き込む人もちらほらと

晴れて研修を終えた、21年夏。機材の調達、酒造免許の取得など開店に向けた準備に奔走します。

しかし、酒造免許は取得するのにとても時間がかかります。早くて1年ほど、場合によってはそれ以上になることも。その間何もしないのはもったいない。そこで醸造所予定のスペースで「ホームブルーイング」をします。ホームブルーイングとは、1%以上のアルコールを含まないアルコール飲料作りのこと。それ以上のアルコール度数を要すると、酒造免許の取得が必要となるのです。

「ホームブルーイングは本格的な機材がなくても、家庭のポリバケツみたいなもので作ることができるんですよ。酒造免許を取得するまでは提供品を作れないので、醸造所予定地で実験を繰り返していました」

あらゆる麦芽と掛け合わせる食材、発酵度合いによって変化するクラフトビール。「これが美味しい」「これが飲みやすい」という黄金のマッチングを探し求めて、来る日も来る日もこだわりました。

機材のチョイスにもぬかりはありません。

「やるからにはきちんとした機材を揃えたかったから。うちはアメリカ製の機材を選びました。とても高額でタンクやサーバー、冷蔵庫など合わせると1000万円以上するんですよね。でも機材の緻密さひとつとっても、ビールの味わいがガラリと変化をしてしまう。ここは“可愛い我が子を生み出すための大切な投資”なんです。時間がかかったとしても手を抜きたくなかったんです」

温度や洗浄の管理は、実に繊細かつ重労働。醸造長が常に緊張感を持って取り組んでいる
温度や洗浄の管理は、実に繊細かつ重労働。醸造長が常に緊張感を持って取り組んでいる

そう、時はコロナ禍に加え、ウクライナとロシアの紛争状況によって世界的に物流が不安定な時期に差しかかっていました。21年の9月に注文して、機材が続々と到着したのは翌22年10月のこと。「クラフトビールをやりたい」と構想してから1年半が経過していました。

構想約2年。待ち望んだブルワリーが誕生

酒造免許を取得し、営業許可証を手にしたのは22年12月。季節が一つすぎ、冬になっていました。

「ちょうどサッカーのワールドカップで盛り上がっている時期でした。観戦しながら2人でファーストバッチ(ブルワリーで初めてビールを醸造すること)を仕込みましたね」

ファーストバッチによって生まれたビールを口にした時、二人にとって何にも変え難い喜びを感じたそうです。

「とうとう、ここから稲麦が始まるんだな、と。なんとも言い表せない高揚感を感じた一方で、やっと家に帰れる! とも……。なんせ毎日夜中までかけて仕込みをしていて、最後の日は朝の6時を過ぎていましたので(笑)」

ファーストバッチは、まるで我が子が生まれたかのような感動の瞬間だったそう
ファーストバッチは、まるで我が子が生まれたかのような感動の瞬間だったそう

並行して、クラウドファンディングにて資金調達に挑戦。“熱い思いを支えたい!”と集まった90人の支援者の支えと共に、その後は急ピッチで内装工事に励みます。リハビリデイサービスの時に残った内装を活かしながら、醸造スペースと飲食スペースを区切る工事を加え、機材を設置。その後は醸造所内で、仕込みを始めます。

石原さんは連日、鍼灸整骨院での仕事が終わってから、夜な夜な勝亦さんとの仕込み作業に励み続ける日々。底冷えが続く冬の間3ヶ月近く、毎日没頭して過ごします。

府中街道沿いから見えるずらりと並んだタンクの姿は圧倒的
府中街道沿いから見えるずらりと並んだタンクの姿は圧倒的
電気冷蔵庫によって厳密な温度管理をしながら提供する
電気冷蔵庫によって厳密な温度管理をしながら提供する

構想から時間にして2年近くが経過。満を辞して23年3月に「イナバク」はオープンします。「店にお客様が入った姿を外から眺めてみて、涙が止まらなかったです」と石原さんは振り返ります。

今もなお、石原さんは鍼灸整骨院で診察後、土曜日の午後からブルワリーに移動し、仕込み作業をします。タンクに麦汁と酵母を補充してから、飲み頃になるまではおよそ1ヶ月ほど。3つのタンクで発酵させながら、毎週ビールの提供をしていきます。

サーバーから下ろし立てのビールたちは、ふわりとぬける柔らかさ、のどにジリっと残る刺激、甘やかさ、蜜花のような芳しさ……。それぞれに味わいと香りが異なり、クラフトビールの豊かで不思議な世界観にぐいっと引き込まれます。

この日私たち編集部がお目にかかったビールは3種類。柔らかな琥珀色の「稲麦エール」、深いアンバーカラーが印象的な「BRITISHKAPPA」、そして黄金色に輝く「BREAKTIMEKAPPA」。飲み比べができるメニューは人気の一品
この日私たち編集部がお目にかかったビールは3種類。柔らかな琥珀色の「稲麦エール」、深いアンバーカラーが印象的な「BRITISHKAPPA」、そして黄金色に輝く「BREAKTIMEKAPPA」。飲み比べができるメニューは人気の一品

同じビールを仕込んでいても、醸造したものを初開栓する時はいつもドキドキするという勝亦さん。

「お客様の様子を見ながら、味や変化を確かめています。自分が作ったビールがおいしいと言っていただけると何よりも感動します」

しかし、ビール作りは決して簡単ではありません。

「毎週月曜日に仕込んでも、ビールが1週間ですぐになくなってしまうんです。本当は新しいメニューをもっと増やして提供できたらいいのですが……大量生産ではないので、気軽にできない難しさはあります」と石原さんは話します。

すぐにタンクが空っぽになるということは、それだけすでに愛されているということです。なかには毎日のように足を伸ばす常連さんもいるのだとか。

コンパクトな店内は、全部で12席。おひとりさまも、ファミリーもくつろぐことができる空間が嬉しい
コンパクトな店内は、全部で12席。おひとりさまも、ファミリーもくつろぐことができる空間が嬉しい

「時間をかけて開店準備をしてきたから、ここを通りかかる人たちは皆んな“何しているんだろう?”と気になっていたみたいなんです。クラフトビール店がオープンしたと知ってからは、近所の方が続々と足を伸ばしてくれるように。みなさん“やっとオープンしたよ、嬉しい”と言ってくださって。僕も嬉しかったですね」

さらに圏域外から足を伸ばす人も。関東近郊のクラフトビール愛好家たちは、新しいスポットがオープンしたと聞きつけると1時間以上かけて来店するのも珍しくないそうです。

「ブルワリーさん同士でもゆるやかなつながりがあって、お客様同士も互いに行き来している。そういう関係性が心地よいです」と石原さんは話します。

おらがまちの特産品を生み出す

イナバクがオープンして3ヶ月が経過。すでに石原さんは次なる目標があるそうです。

「今、地元の農家さんと一緒に稲田堤の特産品である梨を使ったクラフトビールを作りたくて、開発をしています。“稲田堤”の名産品というものも作りたいからです」と熱い思いを語る石原さん。

「稲田堤の“ランドマーク”を作りたかったんです、僕は。人が酒を片手に語らい交わり、新たな関係を生み出す場所にしたいですね」

そんな切なる願いとともに、この街の魅力的な農産物をアピールし、地域の名手同士で街を盛り上げていきたいという思いも強いそうです。

河童のマークはもともと勝亦さんが石原さんをイメージしてデザインしたものだとか。それが、近くを流れる多摩川の河童伝説にもつながった
河童のマークはもともと勝亦さんが石原さんをイメージしてデザインしたものだとか。それが、近くを流れる多摩川の河童伝説にもつながった

「縁があって稲田堤というまちで鍼灸整骨院をオープンして10年以上。その間にこのまちのたくさんの人に助け助けられて今があります。このまちの先輩方から教えていただいた知識や経験を還元していきたいんですね。それがこのブルワリーを通してできることだと思っています」

本格的な人の往来が増していくのはきっとこれからのことでしょう。コロナ禍が収束に向かっている今、まちの中の人の流れは変化しています。これまではイベントや、祭り、マーケットなどは軒並み自粛傾向にありましたが、今後はこうした店を飛び出した場所でも、クラフトビールの魅力を伝えていきたいそうです。

好奇心旺盛でフットワークの軽い石原さんは、未来に思いを馳せて今をひた走る
好奇心旺盛でフットワークの軽い石原さんは、未来に思いを馳せて今をひた走る

最後に石原さんはこんなことを話してくれました。

「麦酒作りは楽しいですが、それだけが全てだとは思わないんですよね。まちのため、地域のために、何か他に面白いなと思いつくことがあればまた新しく始めているかもしれないですね! 地域に貢献するために、僕のやりたいことはまだまだ未知数です」

まずはビールでまちづくりを極めていく。「ビール×地域の化学変化」は、まだまだ始まったばかり。稲田堤のまちがクラフトビール色に染まっていく姿が楽しみですね。(永見)

プロフィール

石原健司

群馬県出身。専門学校を卒業後、鍼灸整骨院に勤務。退職後はJR南武線稲田堤駅前に「いしはら鍼灸整骨院」を開業。その後、鍼灸整骨院併設のリハビリデイサービスに加え、徒歩10分ほど離れた場所に鍼灸整骨院併設のカラオケデイサービス開設。しかしコロナ禍を鑑みて2021年4月に閉所。兼ねてから挑戦したかったクラフトビール作りを始めて2023年2月に「稲田堤麦酒醸造所」をオープンする。

https://twitter.com/inabakubrewery

INFO

SHARE DEPARTMENT/稲城長沼

5月1日、JR南武線・稲城長沼駅徒歩1分の高架下に、シェアキッチンやショップ、オフィスなどが並ぶ創業支援施設「SHARE DEPARTMENT (シェアデパートメント)」が誕生。ぜひ、あなたもここで小商いを始めませんか?

施設名称

SHARE DEPARTMENT(シェアデパートメント)

住所

東京都稲城市東長沼516-2

アクセス

JR南武線・稲城長沼駅 高架下徒歩1分

区画・月額利用料

ROOM:電気、水道、ガスが整備された専用区画(48,400円〜)
8K:業務用の厨房機器を共用するシェアキッチン(33,000円・13,200円)
BOOTH:24時間365日使える専用のシェアオフィス(19,800円)
CLASS:好きな曜日・時間だけ使えるシェア教室(8,580円)
GARAGE:キッチンカーや屋台等の移動販売に(8,800円〜)

すでに満席の区画もあります。内覧も可能ですので、利用を検討されている方はお早めにお問い合わせください。

現地内覧会

[日時]
5月20日(土)

[集合時間]
11時〜/12時〜/14時〜/15時〜
※途中参加の場合、少しお待たせする可能性がございます

[集合場所]
SHARE DEPARTMENT(建物南側の正面入口付近)

[所要時間]
所要時間約1時間(途中退室可)

[対象者]
施設のご利用を検討されている方

[申込方法]
事前申込不要、直接現地にお越しください

※メディア取材や視察については、以下よりご相談ください。
Mail:info@town-kitchen.com
Tel :0422-30-5800

【連載一覧】
SHARE DEPARTMENTオープンに伴い、稲城市周辺でユニークなお店や事業をはじめた人たちに取材した連載企画。地域で仕事を生み出すポイントや小商いをはじめるヒントが見えてくるはず。

VOL.1 “隣”のカフェで地元の縁を紡ぐ
ざるやのとなり となりさん

VOL.2  人生を駆け抜けるサイクリスト
TRYCLE合同会社 田渕君幸さん

VOL.3 ママが稲城の梨で起業するまで
ココロコ株式会社 山本友貴さん

VOL.4 ブルワリーをまちの社交場にする
稲田堤麦酒醸造所 石原健司さん

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