蛇口をひねれば、当たり前のように出てくる水。市町村が上下水道を整備した後、家などで使えるように給排水設備を整えるのがまちの“水道屋さん”です。祖父、そして父から「矢島工業所」を受け継いだ矢島武志さんに、配管工の仕事について聞きました。
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「祖父は、今の武蔵野市にあたる武蔵野町で“井戸屋さん”をしていました。昭和初期までは井戸が生活用水だったので、家や町会ごとに井戸を掘るという仕事があったそうです。自治体が水道事業をはじめてからは水道屋として、水を扱う仕事をずっと続けてきました」
そう話す矢島武志さんが、家業である矢島工業所に身を置いたのは1991年のこと。祖父、父に続く3代目となるべく、6年ほど勤めていた会社を退職しました。
「家業をやりたいとは思ってなかったんですよ(笑) この人生でいいのかと葛藤はありましたが、ほかにしたいこともありませんでしたし、長男ですからね。わたしが継いだのはちょうど、バブル経済が崩壊した“失われた30年”の只中。景気がよかった時代を過ごしてゆったりとした考え方の父を反面教師にして、日々コツコツと働いてきたつもりです」
例えば、一軒家の新築工事には、建設業者のほかに、協力業者として10業種ほどが携わります。設計、大工、屋根屋、矢島さんのような水道屋、電気やガスの業者、そして内装や建具屋の業者などです。同時に現場に入って作業を行うため、経営者同士での調整や相談事がしばしばあるそう。20代で代表に就き、経営者となった矢島さん。どのような苦労があったのでしょう。
「困ったのは、30代の半ばまでかなり童顔だったので、実年齢より若く見られて、何か発言するたびに『お前は若いのに生意気だ!』と言われて(笑) でも、そうやって声を荒げたり、態度が横柄な人って、やっぱり生き残っていかないものですね。年齢を重ねても現役でいる人は、協調性があるというか。それで、わたしはいつも若手を見習うように心がけています。今の若い人って、ものすごく優秀ですよ」
代表である矢島さん自身の仕事は、工事の計画や図面をつくったり、職人たちが作業しやすいよう現場での段取りを考えること。今は新築の現場が減り、メンテナンスやリフォームがメインになっているといいます。
「武蔵野市にはアパートなど賃貸物件を所有している方が多いので、その修繕作業をたくさん請け負っています。水道屋として恵まれた地域だったからこそ続けてこられたと感じているので、地域に貢献できることを常に探しています」
井戸から水道への移り変わりを経て、さまざまな技術が進化し、仕事の効率や求められる技量も変化してきました。
「かつての給水管は鉄製で錆びやすく、機械でネジを切る必要があったり、管をつなぎ合わせる作業が難しかったりと、熟練の技術がものをいう世界でした。錆びず、自由に曲げられるポリ管が登場して以降、施工時間は一気に短くなりましたし、作業のハードルが格段に下がったと思います」
職人たちの作業負担が軽くなれば、業界全体での後継者探しにも新たな道が拓けます。
「若い人がなかなか入ってこない業界ですが、建築の仕事も悪くないですよ。水道屋は、この先も間違いなく残っていく業種だと思います。仮に18歳から仕事をはじめたとしたら、腕の立つ人は、相対的には企業勤めと同じか、それ以上稼げるんじゃないかな。学歴も関係ないし、女性も活躍しています。人手が足りないので、若い方はいつでもウェルカムです」
流れに身を任せるように家業を継いだ矢島さん自身も、人生を振り返り、水道屋という仕事の良さを感じているといいます。
「高校や大学時代の友人に会うと、定年後も再雇用されている人がたくさん。彼らの話を聞くと、サラリーマンの方がはるかに大変そうで、わたしにはとても勤まらなかっただろうなと…。人間関係の悩みが多すぎて、したいことの半分もできない。わたしは水道屋の経営者として、潰したり赤字を出すリスクは避けられないですが、その代わり何でも自分で判断できる。今になって、『わたしはこの仕事で良かった』と思います」
暮らしに欠かせない水道屋の仕事の裏側には、若い人から学び、ともに歩んでいこうとする矢島さんの仕事観がありました。
創業者の祖父、2代目の父の後を継ぎ、1991年、有限会社「矢島工業所」の代表に着任。「三多摩管工事協同組合」の理事を5年、武蔵野支部長を8年務め、2019年から「武蔵野市上下水道工事店組合(水友会)」会長。