そばではたらく
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子どもに見せたい八百屋の背中

会社を辞めて自分の店を持つ、といういわゆる脱サラストーリーはめずらしくないけれど、八百屋を新規開業する人はそういないのではないでしょうか。なぜ八百屋?「小金井八百屋やおつる」オーナーの、つるさんこと松江鶴人さんに聞きました。

省エネモードではたらいていた自分

東京の郊外、小金井市にある丸田ストアーは、肉屋さんと総菜屋さん、カフェがある昔ながらの集合店舗。近所に住むサラリーマンだった松江鶴人さん(愛称:つるさん)がここに小金井八百屋やおつるをオープンしたのは昨年のこと。会社を辞め、自分が暮らす地域で個人商店を開業するに至るまでには、紆余曲折がありました。

新卒で入った会社に在籍して10年以上経ったころ、つるさんは自らのはたらき方に疑問をもつようになります。きっかけは、ふたりの子どもの父親となり、地域の中で子育てに関わっていくことの楽しさに目覚めたこと。「この楽しさを広めないともったいない!」と、周囲を巻き込んで様々な企画を立て、盛り上げ役のリーダー的存在に。やがて、休日は地域の活動を全力で楽しみ、平日は省エネモードではたらく自分に気づきます。「子どもたちに誇れるような生き方だろうか」というモヤモヤが膨らんだつるさんは、一生懸命はたらく自分の姿を見せるべく、深く打ち込めるしごとを求めて転職することを決意します。

10 年以上勤めた大手ゼネコンを離れる

丸1年を超える転職活動を経て、営業職でインターネット通販の生花販売会社に就職。花を育てる圃場(ほじょう)を訪れるうち、自分でも作りたくなってくるほど昔から植物を育てるのが好きだったというつるさん。そんな環境の中、自分に出来ることは何だろうと様々な可能性を模索していたとき、目に飛び込んできたのは野菜ソムリエのweb広告でした。「人に楽しんでもらうには美味しいものが一番ではないか。野菜で何かやろう」とひらめき、すぐに資格を取得しました。「人に伝えるときに分かりやすい職業がいいと思ったんです」。誰にでも身近な野菜を扱い、地元で地域に貢献できるしごととして、「八百屋をやろう!」と決心しました。地域の活動を通して、場づくりにも興味を抱くようになっていたつるさん。日常の中で人が集まり、小さなよろこびを共有できるようなワクワクする場をつくりたいという思いが湧いてきます。そんな発想も、お店を開くというビジョンに合致しました。これまでの経験や地域への思いを活かすのにぴったりだと感じ、7年間つとめた生花販売会社を退職し、開業に必要な経験をつむため再び転職します。

丸田ストアー入口。手前はカフェ、惣菜屋さん。現在、3月で閉店した魚屋さんの店舗が空いています。

八百屋開業に向けた修行時代

まずは小売りを学ぶという目的で、大手百貨店の契約社員として青果売り場に勤務。お客さんと直にふれあうことで、「求めているのはモノより“よろこび”なんだ」と気づき、小売りの面白さ、奥深さを実感。はたらきながら創業スクールに通い、八百屋の新規開業の事業計画を立て、少しずつ具体化していきました。

小売りの次は物流のことを学びたいと、大田市場の仲買人として転職します。市場は容赦ない怒声が飛び交う昔気質の現場。「死んじまえ!いますぐ死んじまえ!と罵声を浴びせられたときは、あぜんとした後、あまりの言葉に笑ってしまった」というのは当時のエピソード。「デコポンを何千何万個も袋詰めする作業をしているうち、触るだけで美味しいデコポンが自然と分かるようになった」など、厳しい現場での経験は、その後の大きな糧となりました。

仲買人として大田市場で物流の現場を経験。「市場はとてもよく出来たシステム」だそうです。

厳しいことは承知のうえ、ハラをくくった

小売りと物流を経験したつるさん。いよいよ職を辞し、開業に向けて銀行に融資の相談へ赴きます。ある程度予想はしていたものの、経営の見通しは甘くないことを痛感。百貨店時代にかわいがってくれた上司も本気で心配し、八百屋はあきらめるよう説得されたそうです。しかし、負けずぎらいのつるさんは、逆に「やってやろうじゃないか、見てろよ!」という強い気持ちが湧き、ハラをくくります。「背負うリスクよりも自分の思いを具象化できるか試したいという気持ちが勝った」逆境に燃える性分がチャレンジへと向かわせました。

地元にこだわって場所を探し、2016年春、自宅にほど近い丸田ストアーにやおつるをオープン。大盛況だった開店記念セールには多くの地元の仲間が手伝いに来てくれました。現在は1周年を迎えたばかり。少しずつ地元に定着しつつあります。八百屋を拠点にやってみたいアイディアはたくさんありますが、まだまだ余裕がなく、日々を乗り切るのが精一杯。でも笑顔で「八百屋のしごとは奥深いよ」と言います。

「売れるかどうかすぐに結果が出る。毎日が試行錯誤の連続」。商品は、天気やお客さんの様子を見ながらすべて自分の目で見て買い付けています。「八百屋のしごとはクリエイティブ」だと言い、「状況が常に変わるので工夫が必要で、とても頭をつかう」のだそう。

暮らしに近いところで自分のしごとをつくったつるさん。「自分の選んだ野菜で笑顔になってもらいたい」。そんな思いで、今日も丸田ストアーで奮闘しています。(安田)

商品はすべて自分の目で見て仕入れたもの。「ひとつひとつについて語れます」。

プロフィール

松江鶴人

1969年 兵庫県姫路市生まれ。大学卒業後大手ゼネコンのフジタで12 年間、SEや経理など事務系の部署ではたらく。生花販売業、百貨店、仲買人などを経て独立し、2016 年4月、小金井八百屋やおつるをオープン。会社員の妻と高校生の長女、中学生の次女と4人家族。